「AAプログラム」の中に、埋め合わせと言う言葉が出てくる。
今まで、飲んでいる頃に、迷惑をかけた人傷付けてしまった人、に治部湯から進んで、謝罪して相手に許してもらうというものだけど、そんなこと、全て上手く行くはずがない。
しかも、相手は、自分からしてみたら、負い目のある人、できれば避けて通りたいと思ってる人、が多いのではないだろうか?

でも、よく考えてみると、「酒の席での無礼講、多少の事なら、相手も当時は酔っていた訳だから覚えていないんじゃないか?こちらが思っている程、深刻ではないのではないか?」とか思うときもある。只、家族は別問題だ。

家族は、少なくても、巻き込まれ、振り回され、大なり小なり、迷惑と、被害者であることは事実。祖の人たちには、せめて何らかの形で、償いをしていかなければならない。

そう考えている。
僕が、今、心のそこから埋め合わせをしたいと思っている人は、今は、もうこの世にはいない。両親だ。酷いこと、心配事も沢山かけたのは当然、でも、楽しい時間を過ごせたのも事実。父親と一緒に酒をのみ、「いつか、父が酔って僕に担いで帰られてみたい」って、願いも実現した。
母は僕の酔っている姿、据わった目、呂律の回らない言動に、「いつか体を壊すんじゃないか」といつも心配してくれていた。
僕は、自慢じゃないけど、両親、家族、親族から愛情をそこそこ人並みには受けて育った。
だから、恨みはない。
母親に対しては、口うるさいなぁ❗と思うくらい。父親には男同士良い飲み相手としてよく、飲んだ。カラオケなどもやった。その時は、お互いの持ち歌の奪い合いっこ、教え合いもした。最初の一杯の酒を教えてくれたのは父…「大学にいったら、嫌でも飲まされる。その前に飲める体質かどうか検査してやる」とか言われて、只、晩酌の付き合い程度から始まった。
ある意味、アルコールに囚われる切っ掛けとなった出来事でもある。
当時はまだ、高校卒業前の18歳

それから下宿先でも一人やたまに友達と飲む機会が増えるようになり、「酒」という、魅惑の飲み物の虜になっていった。当時の僕は、酒が人より沢山飲めること、酔わずにその場からか得ること、酒に対してコントロールができることが偉い、すごいことだと思っていた。

段々、時間がたつにつれて、酒がらみの問題がふてていった。警察のお世話にこそなら無かったが、
急性アルコール中毒で、救急車に乗ったり、
急性肝炎で、入院したり、
途中で酔いつぶれて、道路で寝ていたり、
下宿先で、トイレで寝ていたり、
冷蔵庫の前で寝ていたり、洗濯機の前で寝ていたり、
風呂場で、シャワーを浴びながら気絶していたり、
朝目覚めると、知らない人が隣で寝ていたり、カラオケBOXを出入り禁止になったり、(飲み放題のドリンクの氷を開放厳禁と書いてある非常扉を無理矢理開けて、そこから下の階、つまり外に向けて放り出したりしたから)スピーカー、モニターテレビを壊したり、
カラオケBOXのトイレにきちんと鍵を閉めて立てこもったり、
携帯電話をなくしたり水没させて、メモリーが全て飛んだり。
例をあげたらきりがない。

そんな馬鹿げた飲み方をしているうちに、
父が、急性心不全で他界(当時僕は、25歳)
穴の空いたパジャマを着ながら、少しずつ、仕事の自費の部分の値段をあげていきながら、どうにか、大学まで卒業させてくれた父…亡骸の両手を見たとき、「この両手だけで、家族を支え、スタッフを支え、家業を守り、自分を大学卒業までさせてくれたんだ」「だけど僕は、一人前になった姿を見せることができなかった…」
卒業試験は通り、卒業は決まっていたけど、残りの最後の試験にその年、落ちたのだ。
「全うに合格していたら」
と思った瞬間、申し訳無さと、無念さと、不甲斐なさとこれまで我慢してきた感情が一気にあふれでて思いっきり涙が出てきた。余り感情を表に出さないはずの自分が、人目を憚らず思いっきり泣いた。

母のときは「膵臓癌」を患い、余命宣告までされたとき一番ショックだったのは間違いなく本人だったろうけど、僕も、何が何だか同自分のなかで受け止めて、処理をしていったら良いのか全くわからなかった。只、愕然とした。
精神的な支柱を無くしたような気持ちでいたし、この先が、不安で仕方なかった。
当時、嫁は、全くの畑違いのところからお嫁に来たので、自営と言う家の事情がよくわからず、仕事場にも出ていなかったので、相談相手として墓なり頼りなかった。全て、時分が支えて動かさなければ。「そうでなくてはいけない!」ときめて、自分のキャパ以上の仕事量をこなした。でも、確実に日に日に弱っていく母の姿を見ていてどうしても、やりきれず、自分でも、この先の不安、思い通りにいかない焦り、のなかで、真剣に本音で相談できる相手がいるようでいない現状。そんな中でもがき、自分なりに考えたけど、名案が浮かぶはずなどなくまた、現実逃避のための酒量が増えて行った。こんなことをしていても、どうしようもならない事はわかっていたけど、飲んで今を忘れること位しか、出来なかった。

自分の正直な気持ちを圧し殺しながら周りの期待に少しでも答えなければという責任感に追われ、さらに拍車をかけたのが、周囲からの過剰プレッシャー、仕事上のストレス…
たまから、酒に飲まれて、体を怖し、アルコールに囚われる。依存症になったなんて言い訳をするつもりはない。
だけど、最後の最期まで、生きる希望を諦めず、抗がん剤治療の副作用にも耐え最終的には、痛み止の麻薬も利かないほど、苦しみ抜いて死んでいった母。孫のことも気がかりだったに違いない。

死ぬ前日まで普通に仕事をして生活していたのに、翌日に冷たくなっていた父…父には、国家資格を取った自分の姿を見せられなかったこと、母には、未々、孫の成長を近くで見守っていてほしかったし多分本人もそう願っていたであろうこと。

それぞれ叶わなかったけど。それ以前に、僕が、親のことなど気にしないで、心配を他所に、好き勝手やって心配を沢山かけてしまったこと。これは、これからどんな形で償い、埋め合わせをしようと試みようとしても無理なんだ。
それは、僕自信のなかでは、とても大きな後悔でもあり、心残りでもあり、謝っても、今さら同にもならない現実。後の祭り。父は、享年53母は享年63歳でこの世を見れんたっぷりで旅だった。
酒が頭にまで来て、幻聴が聞こえ始めたとき、落ち番最初に聞こえたのは、母親からの説教だった。あの世に行ってからも、心配をかけてしまっている自分が情けなく感じるけど、僕の心のなかにまだ二人は生きているような感じがするから、そんな幻聴が聞こえてきたのかなぁとも感じる今日この頃でした。
少し、昔のことを思い出して書いてみました。