『礼節を重んじる』
本日は2024年5月3日「憲法記念日」である。
場所は神奈川県横須賀市にある「うみかぜ公園」だ。
午前9時15分ごろ、快晴で気温18℃、すがすがしくて心地良い。
ゴールデンウィーク後半の初日なのもあり、朝早くから大勢の人々が来ている!
それぞれに目的がある。海釣りや、テントを張ってのバーベキューや、犬の散歩など。
駐車場を見ると横浜ナンバーを中心に関東全域のナンバーが見られる。中には東北や東海や近畿や九州地区のナンバーも何台かある。
この公園には、市からの委託を受けゴミ集め等の美化にあたる清掃員の方たちが何名かいる。中には自分勝手にゴミを放置して行く人達も少なくない。それでも清掃員の方たちは終始笑顔で時おり来客たちと挨拶も交わしながら作業に当たる。
通りがかりの一人の体格の良い若者が、清掃員たちにハッキリとした口調でお辞儀をしながら挨拶をした。「おはようございます。お疲れ様です」。見るからに体育会系の男子である。
近年このような「礼節を重んじる」タイプの人間間の交流が、残念ながら失われつつあると感じざるをえない。人間関係が希薄となり、自分の事だけで精一杯で他の人を顧みる余裕のない時代の弱点ともいえる。
話は変わるが、今日は憲法記念日である。自衛隊の存在をしっかりと適法化するため、憲法第9条第2項の改正が急務かと思われる。
「荒(すさ)んだ心が洗われるようだ……」
ふと自宅で CS ( Communication Satellites ) 放送のスイッチを入れたとき、たまたま昔懐かしい『まんが日本昔ばなし』が入っていた。題名は「姥(うば)捨て山」。何気なくみていた。
言うまでもなく「口減らし」のため、やむを得ず若い命を優先させ、年寄りを山へ連れて行く日本特有の古くからのならわし。
お殿様から勅令が出て、仕方なく母を山に連れて行き、置き去りにしたままその帰り道に雪に見舞われた息子は、ふと我にかえる。「女手ひとつで懸命に育ててくれた母を、やっぱりこの寒いなか置き去りになんか出来ない」と迎えに引き返す。
しばらくは見つからないようにと母を家の地下にかくまう。
その後の殿様からの無理難題なご用達に応えるのに、息子は母の知恵を借りる。2つほど用件を叶えたときに、母をかくまっていることが殿様にバレてしまう。
命令に逆らったとして、殿様は刀で息子を斬り捨てようとする。
「私はどうなっても構いませんからお願いです。母を助けてやってください。長く生きた年寄りの知恵は役に立ち大切です」
ハッとした殿様は刀をおさめた、という話。
ささやかなまんが物語であったが、いつの間にか目に涙していた。(自分の心は、まだ腐り果ててはいないようだ)
失われそうになっている忘れてはならない大切な何か、を思い起こさせられた気がした。
~名言・格言~
1、「失敗や挫折こそ、成功へとつながる!」
from 五郎丸 歩
2、「好奇心が無くなったらおしまい」
by 秋元 康
3、「どんなに悔いても過去は変わらない。どれほど心配したところで未来もどうなるものでもない。いま、現在に最善を尽くすこと。」
by 松下幸之助
4、「失敗を受け入れて、また挑戦して行く」
(バッティングの7割は失敗、3割だけが成功だ。それは人生に通じる)
by 和田一浩
5、「幸運の女神は、笑顔と謙虚な人のところに近寄ってくる」
from 王 貞治
6、「病気に罹ることは止むを得ないが、病人へと成り下がるな!」
7、「政治家として道半ばでしたが、いっぱい種を蒔いて来てるので、やがて芽を吹くことでしょう」
安倍昭恵夫人の言葉 <令和4年7月12日(火) 都内の斎場にて>
8、「今日を生きるための言葉」
人生はあっという間に過ぎます。だから、好きなことをやりましょう。あの時、やっておけばよかったと思うなら、やって失敗したほうがいいですよ。
瀬戸内寂聴
9、「あるがままでいい」 ~アントニオ猪木 最期の言葉
10、①「なるようになる。人生は自分次第」
②「必要なものは もうあったのに。不要なものを欲(ほっ)してしまう」
from TV
11、「他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる」
from 築地本願寺
「安倍元総理の背後の警備、ガラ空きだったのでは !?」
これは警察で何らかの警備に従事した経験がある者でないと、感じ取れないことであろうと思われる。
以下、少しばかり突っ込んで、思うところを記してみたい。
まず 安倍元総理死亡 という最悪の結末に至ってしまったこと、心より哀悼の意を表したい。
そしてこれは、どう考えても警察の警護の不手際と言わざるをえない。
多くの人々が、一般の方がスマホで撮影した動画、被疑者が元総理に向かって後方から発砲するものを見て、心が震える思いをしたことだろう。
だがこの映像おそらく誰が見ても、背後の警戒が手薄になっていて穴が空いているのが見て取れることと思う。
当然のことながら、この種の警戒警備というのは、警護対象者の周囲360度全面に渡って行うのが鉄則である。特に背後に危険が潜んでいるともよく言われる。
そして事件を発生させてしまったら、もうそれで終わり。それは警察の敗北。いくら素早い反応で被疑者を現行犯逮捕したところで後の祭りである。必要なのは100%事件を未然に防ぐこと、それしかない。
なぜこのような事態を招いてしまったのか? 漠然とした理由になるが大きく2つあると思う。
現場で警護にあたる警察官どうしの連携が不完全であったことと、もう一つは彼らが常時その耳にはめて聞いているイヤホーンから流れている本件警護に関する詳細な情報、それらを共有するという点で不備があったものかと考えられる。
具体的な説明をしてみよう。
安倍元総理が現場に到着する直前に、やや落ち着きのない様子であたりを見回すこの被疑者となる挙動不審な男がたしかに動画に映り込んでいる。その時点で警察官がなぜそれを事前に察知し、挙動不審者としてそこから遠ざけて職務質問を開始し、任意で所持品検査まで出来なかったのか?という疑問が残る。眼力のある警察官であれば、容易にこの不審者に気付けること当然と思われる。
そして次に犯行時の状況であるが、被疑者が何気なくゆっくりと元総理の右斜め後方から歩み寄っているが、この時点でなぜSP(Security Policeの略)なりが飛び出してこれを制止できなかったのか?警備に穴があるとしか言いようがない。どう見ても、要人の背後への警戒を怠ったとしか思えない。
本件警護は、奈良県警察本部警備部参事官をトップとし、現場(げんじょう)には奈良県警察の私服と制服の警察官のほか、警視庁警備部警護課からのSPもいたという。
そして警護にあたった警察官の総数は数十人であったらしい。
ところで警察が安倍元総理の応援演説が行われることを把握したのは、この前日の夕方だったという。選挙演説ではよく見受けられることらしいが、突発的に近いものがあるので「もしや十分な警備体制で臨めなかったのでは?」という懸念も払拭することができない。
いずれにせよ、治安大国と言われるこの日本において、このような銃撃殺人事件を発生させてしまったことは、とりわけ警察庁をはじめとする警視庁や奈良県警察の重大な過失ともいえ、今後においてその責任を厳しく追及されることとなるだろう。
「光る原石!」
世の中には分野を問わず、せっかくの素晴らしく輝く素材を持ち合わせていながら気付かれることなく埋もれてしまっている、非常に残念な「光る原石」が沢山あると思う。
特に今の時代は ‘All round player’ でなければ通用しないだろうから、初期設定から販売促進等の宣伝効果に至るまで、すべて独自で徹底管理するところまで求められる。
そこまで試みて、ようやくのこと、然るべき専門家たちの目に留まり、かろうじて底辺から掬い上げられる。
そうして一度波に乗ったらしめたもの。各分野のプロたちの知恵が凝縮され、その素材は更に磨きをかけられ一段と洗練されたモノになって世に出て行く。
ただ毎度言っているように、そこへ辿り着けるのはほんの一握りのラッキーな者たちだけ。
だが「運も実力のうち」である。
「中道を行って、No,2に徹する」という生き方
引き続きのコロナ禍において、いま思いつくところを短文で記してみたい。
おそらく、たくさんの人々がこのコロナ禍の影響もあり、多くの不満やわだかまりをその胸の内に抱えて、グッと辛抱して生きていることだろう。
しょせん人間は、それほど強い存在ではない。だから無理をする必要はない。「先見の明」というものを備えている人物など、ごく限られる。
一歩下がって楽に生きる選択肢もある。悪い表現をするなら、苦笑いをしていっそ開き直ってしまうのである。自力でどうにもならない事柄は、そのままどうすることもできない。「なるようになるさぁ。明日は明日の風が吹くさぁ」で悠然と構えるしかない。歌のタイトルにもあるではないか。『川の流れのように』『時の過ぎゆくままに』『時の流れに身をまかせ』’Let It Be’など。
そしてその中で、新しい自分を発見できれば、なお良い。
「この世は予期せぬ事ばかり」だし「一寸先は闇」である。終わりのない泥沼、底なし沼にハマる前に、波長の合う仲間たちに協力や手助けを呼びかけるべきかと思われる。
見出しに戻ろう。
一本の道があり、右へ行こうか、左へ行こうか、それとも真ん中にしようか? と思い悩む状況に我々はよく出くわす。この場合3択のうちの、中道を行くのが最も好ましいとする説がある。単純明快に「ど真ん中を進みなさい」との暗示である。それは無難な策といえばそうであるが、途中からでも軌道修正が可能という利便性も含まれる。
また(誰もがNo,1になりたがるのが世の常)だが、歌の詩に「ナンバーワンにならなくてもいい。もともと特別なオンリーワン」というのもある。それに習ってNo,2に徹するという生き方、それもアリだ。ただしこれはナンバーツーに甘んじるという意味ではなく、むしろ欲張って高望みをし墓穴を掘らないように、との意味合いである。
「お金」!?
いまさら、金銭価値について議論する余地などさらさらないが、とある居酒屋での会話である。たまたま、お金に関しての話題となった。
女性スタッフが言う。
「お金なんて、あればあるように使ってしまうし、なければないなりに済むし、あまり深く考えない方がいいんじゃない?」
もう一人の女性スタッフが、これに反論する。
「そんなの、しょせん『きれいごと』だよ。お金はないよりあった方がいいに決まってるし」
そばにいた男性店長が言う。
「けど、貧乏人には貧乏人の悩みがあるのと同様に、また違う次元で金持ちには金持ちの悩みがあるらしいよ。お金=幸せかな? どっちとも言えないね」
つまり「世の中、金か?」「いや、それだけじゃないか?」という、たいへんシンプルな議論である。
隣の席にいた初老の紳士が、こう呟いた。
「世の中お金だけとは思いませんが、ないよりはあった方が何かといろいろ便利だと思いますよ」
ふと思いつきだが、一方でパチンカス ( パチンコにのめり込む人 のこと ) の人達について考えてみてほしい。4円パチンコだと、終(しま)いに一万円札が100円位の感覚になってしまうとよく言われる。彼らは頭ではわかっている。合法的で何か特殊な攻略法でもない限りは、通じて勝てるはずなどないことを。過去はともあれ現在の確率変動機では、残念ながらそれは無理である。
あれは一種の脳の病気である。医学的にまでは解説できないが、大当たりしまくって いっぱい稼いだ時の あの何ともいえない快感を、脳のどこかでずっと覚えている。つまりその快感を呼び起こそうとする欲望が、自己抑止力を遥かに上回ってしまう状態にある。だから、やめようにもやめられない。射幸心(しゃこうしん)の方が、克己心(こっきしん)に勝(まさ)ってしまっている状態である。
これは、ちとピントのずれた余談になってしまった。
ところで随分前に、弟が貸してくれた『億男』という本の冒頭に、次のように書かれていた。
イギリスはロンドン生まれの喜劇役者 チャールズ・チャップリン の残した名言格言です。
「人生は恐れなければ、とても素晴らしいものなんだよ。人生に必要なもの。それは勇気 ( Courage ) と想像力 ( Imagination ) と、ほんの少しのお金 ( Just a little money ) さ。」
これらに関する読者の皆さんのご意見も、是非お聞きしたいものである。
「せめて3流から2流へは、誰でもなれるはず」
脚本家の話をしよう。
コロナ禍の影響により巣ごもり状態で、これまで観れなくてたまっていた過去に録画したままのテレビドラマなど、これを機会にまとめて一気に視聴している方もきっと多いのでは?と思う。
そこで今回はTVドラマの脚本家に絞って、それにまつわる話をしてみよう。
いま著名な脚本家であっても、最初から一流であったわけでは決してない。
その道に向かっての開始当初は、皆2流3流からのスタートであったはず。
例として、『東京ラブストーリー』の脚本で有名な 坂元裕二 は公募・コンクールからのデビューであったし、『家政婦のミタ』脚本の 遊川和彦 は元々ADの仕事をしていた。
また『古畑任三郎シリーズ』を創作した 三谷幸喜 は裏方として舞台で働くスタッフだったし、『素敵な選TAXI』をヒットさせた バカリズム はお笑い芸人出身である。
もちろん小説家から脚本家へ転身、という例もある。
ここで取り上げた脚本家たちが皆一流というのであれば、それは毎度申し上げているとおり、当然その実力とタイミングの良さと人脈を備えているからである。
「勝負は時の運」とよく言われる。
「運も実力のうち」という言葉がある。
人脈とは悪く言い換えるとコネである。
一流を勝ち取ることができるのは、ほんの一握りのラッキーな人達だけである。
そこには先天性の恵まれた素質や、あるいは後天的な血の滲むような涙ぐましい命を削った努力があるのかもしれない。
ただ少なくとも、覚悟を決めて本気でそれなりの行動を起こすなら、たとえ3流であっても誰もが2流にはなれるはずである。
人それぞれ2
特に昭和生まれの方は思い返してみてほしい。
昔はよく、背広を着たサラリーマンや偉そうなおっさんが、電車やバスの中で新聞を見ているのを目にしたものだった。
ひどい例だと、その新聞を両手で大きく広げ、両隣の人に迷惑をかけている光景も見かけられた。
現在はどうだろう?
言うまでもなく、これがスマートフォンへととって代わり、乗り物内で新聞を見ている人の姿はまず見かけなくなった。
ほとんどの人がスマホを手に絶えず下を向き、各種の情報を収集するための手段として、小さな画面を一部始終覗き込んでいるというのが現状だろう。
時代の推移というのは、たいへん恐ろしいものだ!
ずいぶん前に、某旅行会社主催の日帰りバスツアーで、プロ野球観戦に出かけたことがあった。
その時バス内で、初老の男性添乗員が案内の合間、独り言のように呟いた。
「まあ余談になりますんですが、今日このバスに乗っている皆さんは全員○○新聞をとっていらっしゃる方ということになりますんですが、最近ではそういう方々も少しずつ減少気味のようで......」
私自身も本来なら「綺麗な字で手書きで!」という方を好んでいたはずなのだが?
ただ作家や達人となれば、たぶん入力活字文字と手書き文字の両者を巧みに使い分けて併用することだろう。
アナログ社会からデジタル社会へと!
新聞とスマートフォンではどちらが良いか?とかいう話ではない。
当然ながら最後の選択肢はほかでもない、「人それぞれ」ということになる。
「論文案内」
このたび論文の電子書籍化にチャレンジしてみましたが、iPad 等のタブレット端末からでは実行不可で最終的にはパソコンからでないと完了できないと判明し、また自分の知識不足も手伝って成し遂げることが出来ませんでした。
これについては『小説家になろう』で無料公開いたします。
URL : https://ncode.syosetu.com/n6762gm/
生きた金と死んだ金
この世には、生きた金と死んだ金の二(ふた)通りがあると思われる。
死んだ金の方から説明しよう。例として、キャバクラホステスやホストクラブのホストに費やす(貢ぐ)要(い)らぬ金、それからパチンコとか俗に公営ギャンブルと言われる競輪、競馬、競艇にハマってしまい抜け切れなくなって費やしてしまう金。これらが典型的な例といえるだろう。
各種被災地の存在、そして新型コロナウイルスの蔓延(まんえん)、そんな中で馬鹿げたモノに興(きょう)じている自分を恥(は)じよ! と言いたい。
それに引き換え、生きた金は大いに使うべきと思う。少し履き違えがあるような気がするので再確認だが、本来お金というものは使うために存在している。貯め込んで喜んでいる種類(たぐい)のものではない。
だから「ここぞ!」と確信するなら躊躇(ためら)うことなく使ってしまえば良い。
ずいぶん前にも訴えた気がするが、人生において重要なポイントは3つあると考えられる。
もちろん実力と、その時のタイミング(「勝負は時の運!」とよく言われる)、それから有力な人脈である。
「貧乏人には貧乏人の生き方がある!」
特別な理由があるわけでもなく、気がつけば5年以上も執筆活動を中断していただろうか?
久々に書いてみる。
宣伝になるので商品名は避けるが、赤い発泡ビールを飲んでふと気付かされたことがある。
勝手な先入観で、これまで「まずい」と思い込んで発泡酒の類(たぐい)を飲むことを意識して避けてきた。
だが今日それが間違いであることを悟った。
貧乏人には、それ身分相応の生き方がある。何も背伸びして見栄を張って生きて行く必要はない。
かえってそうした方が幸福であるという場合もある。
発泡性のビールは言うまでもなく低価格で味も今一つだが、貧乏人にはそれがいいのである。
逆にアルコール分が1%高い。名前のとおり、下から絶えず細かい泡が上へと上がり続ける。見た目が非常に鮮やかであり、思わぬ満足感と幸福感が味わえる。
ものは考えようである。プラス思考へと転じれば良いのである。
自分に合った人生の生き方を自ら見い出す必要があるのでは?と思われる。
特に、今の新型コロナウイルスとの共生が叫ばれる世の中においては……。