先日長野県の霧ヶ峰(きりがみね)、車山高原(くるまやまこうげん)で山火事がありました。
わたしはその日、松本に行っていて、夕方から夜に八ヶ岳へ。
その後は、大門(だいもん)か雨境峠(あまざかいとうげ)を抜けて東信(とうしん)に向かうという予定にしていました。
日中に火事が起きたということは知らずにいたので、
茅野市(ちのし)側に入って初めて火事のことを知りました。
下から見ると夜の山は、不謹慎だけれど、そしてけが人がいなかったから言えるけれど、
あれ?今日火祭りなんてあったけかな、という趣きで美しくもあったのです。
その話はまたするとして・・・。
火事だということを知り、
以前も似たようなところで火事があったことを話しをしていました。
現場は木々のほとんどない
二次草原で起きたとのこと。
(あの辺りは限界森林だと勘違いされがちですが、そうではなく、人の手が加えられた二次草原です。この話もまたいずれ。)
で、
ふと思ったのです。
今回は木々はないとはいえ、
もしも木々があり、山々が燃え広がってしまう惨事になるのであれば、
そしてこれが自然発火だとしたら、
木々たち、山々たちは
人間の止まらない伐採、皆伐を我慢ならなくなり、
「そんなに切るんなら、自分たちでいなくなるよ」
と、自ら自分たちを消滅させようとした行為ではないかと・・・。
もちろんこれは、あくまでわたしのアタマの中で浮かんだことです。
でも、
なんだかそんな風に思ったら、
すごく
すごく
胸のあたりが痛くなりました。
事実、長野県だけではありませんが、
県内はどこに行っても、森林伐採、皆伐が今も進んでいます。
素人目にもあきらかに必要はないだろうなと思うものもよく見ます。
わたしは観光客さんたちは行くことのない場所や
標高の高いところに行くこともありますが、
え・・・?ここも・・・?
と言葉をなくすこともよくあります。
眼下に見える街には、私利私欲のために、動く(木々を切る)人がいる。
その手をどこまで伸ばすつもりなのだろう。
日本の屋根が長野県全体だとすれば、
屋根は崩壊され続けています。
反対に、守ろうとしている人々もいます。
けれど、追いつかない。
私利私欲という洪水は、人々の生活をやがては飲み込んでしまいます。
自然を守ることと、破壊することの境はなにか。
尊敬と敬意と、共生と、感謝です。
いつも人はいさせてもらっていることを、
それを許していただいていることを、
忘れてはいけないとあらためて思ったこの頃でした。