あけましておめでとうございます。
今年も何卒宜しくお願いします。
…ていうかさ、
最後に更新したのが、昨年の5月で、
半年以上もの間、全く更新していなくて、
かつ、別にブログ完結or閉鎖宣言もなくて、
こうして再び、記事をしたためるなんて、
自分、どうかしてると思うわ。笑
ここで簡単に昨年のことを振り返っておきますと…
5月17日。
就活真っ只中。
絶対に受かるだろうと思っていた企業に落ちて意気消沈していたところ、
もう一つ、選考がはじまったばかりの地元優良企業に照準をあわせ、
トントン拍子で選考が進み、
「前回の反省を十分に活かせてるわ。完璧☆彡」と思ってるところで、
またもや最終選考で落ちました。
ここまできたら何だかヤケになりまして、
色んなことに手を出すことにしました。
普通の就職活動はもちろん、
企業のインターンや、ボランティア、語学留学、世界一周、
色んなことを検討してみました。
そうしましたらですよ、
偶然にも、きわめて心惹かれる活動を見つけました。
これです。コラボスクール。
被災地で求められる、恒常的な学習環境の確保。
それも、単に外部から押し付けたり供給したりするのではなく、
出来る限り地域の力で実践する。
その姿勢に惹かれ、「スタッフ募集」の面接に行きました。
応募して2日後が面接日。
会場には、社会人のみなさま。
おや???
そうですね、新卒採用なんかではなく、即戦力が求められているんですよね。
被災地です。人手不足です。当然です。
当然、面接でも問われました。
「なぜ就職活動を投げ出したの?」
「大学はどうするの?やめるの?」
「君に何ができるの?」
…うまく答えられるはずもなく。
自分の甘さを知った瞬間でした。
教育の世界に染まりきってきた学生生活と、
その世界に違和感を持って、代替手段として就職活動をした自分。
その2つを結び付けられるとしたら、この活動が一番しっくりきた。
そんなことを面接で話した気がします。
すると、面接官はポツリと、
「よっぽどうちの活動がやりたいこととドンピシャなわけね」
ハイ、と大きな声で答えました。笑顔を伴って。
そんな面接官さんの配慮で、お試しで現場入りすることになりました。
面接の翌日、京都に戻り、
2日後には、現場入りしました。
宮城県・女川。
街のほぼ全てが津波に飲み込まれた街です。
衝撃的でした。
どのくらい衝撃的だったかというと、
自分の体内から、あらゆる感情が消えてしまうほどです。
そして、
何一つ写真におさめることができないほどです。
TVで見ていた惨状なんて、ほんの一部で、
それでは到底理解できない世界が、身の回りに広がっていました。
そして、そんな被災地のために出来ることならば何だってやりたい。
そんなことさえ思いました。
でも、結論から言うと、自分はあれ以来、ずっと京都の地にいます。
理由はいくつかあります。
でも、あえて一つだけ言うならば、
「温度差」です。
自分は、佐賀県出身で、
大学院生で、
衣食住に困ってなくて、
親族友人みな無事で、
女川をはじめ被災地の人と何か共有できるものがあるのか、と問われると、
何も答えられない。
しかも、何か技術や技能や経験があるわけではない。
そう思ったときに、
自分が被災地に行って働く意味、というものを見失いました。
まあ、そんなもの、断言はできません。
実際、7月は死ぬほど悩み苦しみましたし、
今もこの記事を書きながら心揺らぎましたから。笑
それはそうとして、
じゃあ、そんな自分が世の中で対等に渡り合える方法は何か?
やはり、そこで浮かんだのは「教師」という仕事でした。
今まで意図的に教師という仕事を避けてきた理由は、
「今の教育現場に魅力を感じていない」というものでしたが、
よく考えてみると、
「今の教育現場」という場の在り方を決めつけてしまっているのも、
結局自分自身なわけで。
ならば、
「教育現場を変えればいいじゃないか」と。
「斬新な実践にチャレンジすればいいじゃないか」と。
「面白い子ども育てちゃえばいいじゃないか」と。
発想の転換が発生しました。
2008年10月に感じた「教師という職業への違和感」が
2011年7月になって、ようやく解消できた気がしました。
それだけでも、大学院に進学した意味はあったと思います。
これは断言できます。
そんなこんなで、
2月には地元に戻り、
4月からは地元の県立学校で教師という職に就きます。
昨年は激動の年でしたが、
今年は躍動の年にしたいと、そう思います。
以上。
てか、ブログ楽しいわ。
また近いうちに書こう☆彡
このブログに好感をお持ちでいらっしゃる、
物好きな方がいらっしゃいましたら、何卒よろしくです。