シフォン主義という名のケーキもある。
成長を敵にしてしまっては、必要な社会保障なども実現できない。
古典派経済学についての問題に気付いたところまでは良かったが、
日本だけが身勝手に清貧の態度をとれば世界は平和になると言いたげである。
最初の目の付け所はいいのに、なぜ、日本の低成長を推奨する内容になるのか。
これでは、今の安倍政権の金融政策のみで財政は負の成長路線がちょうどいい政策ということになってしまいかねない。将来の不安しか残らないそんな政策が続けば、そんなことをやっていては、経済学に世界が殺されるまでに、日本が殺されるというか消滅してしまうのである。
経済学が世界を殺す (扶桑社新書)
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谷口:特に日本は、資源の輸入依存度が世界でも突出している。輸入資源の自国資源に対する金額的割合は、実に85・7%を占めます。輸入資源は石油、天然ガス、石炭、鉄鉱石、レアメタルなど、採掘すれば必ず環境を破壊するものばかり。日本は、よその国の自然資本を食いつぶすことで経済大国になれたことを忘れてはいけません。成長の恐ろしさを知るべきです。それに、このままの産業構造で経済成長を続けていると、社会的な損失も深刻になっていくでしょう。
経済学に関する観点はいいのに、なぜか日本の鳥べき方向性や、役割を勘違いしてしまっている。
しかも、成長するな!という方針は、現在の緊縮財政とリンクするものがあり、清貧という名の地獄への一本道をほう助することにもつながる危険思想である。
残念ながら氏が懸念している、資源の浪費にせよ、人口爆発の問題にせよ、現在は、第三世界の発展途上国の問題であることに気が付かない解けない。いくら日本が、製品の心で経済成長をやめたところで、そんなこと問題は解決することなく、イスラム世界や中国インド東南アジアアフリカなどで人間が増えていっているのである。それを人類の危機というのであれば、そちらの方をどうにかすることを考えなければならない。
少なくとも、今のような低成長な日本の状況は、働き世代が生産をし、引退世代がその社会のお世話になるという構造は破綻していく。簡単にえば、氏のような老後の心配が全くない存在にはそうぞ会うができないかもしれないが、年金も碌にもらえず、のたれ人で行かねばならない運命やその運命を意識して生きていかなければいけない状況が生まれるのである。そんな現実を無視して、新古典派がどうのこうのと攻撃しているだけでは、いかにも片手落ちである。誰も幸せにしない活動にしか見えない。
国というものは、老若男女問わず、豊かに暮らせる社会を作り上げてそれを持続することが存在意義というものである。成長を放棄するというのは、資本主義社会において、それに必要な経済循環を放棄することとなる。
別に経済成長は、資源の無駄な浪費や人口爆発とリンクしているわけではない。
野放図な開発はたしかに、そのような資源の無駄遣いにつながることもあるだろう。
経済成長によって生活が安定すると子孫を残す余裕も出てくるであろう。しかし、アフリカや南アジアなどで起こっている人口爆発は、経済成長をしているわけではないところで起こっているのである。文化が洗練されると教育にかける費用などの問題もあり、人口の爆発は起こらないのである。
無駄な消費は、快適で豊かな社会にとっては公害という形で害になることにもつながる。、それをいかに緩和るのかという技術を開発するにも成長は必要であり、それによって生み出された高付加価値の清算が成長をもたらすことにもある。その場合は、それまでに使わrてきた資源の消費はかえって抑えられることもあるだろう。ありがちな例でいえば、石油の消費量である。40年前以上からあと30年で枯渇するといわれながらも枯渇することはない。新たな資源が開発されているという話もあるが、同じことをするのに単位当たりの消費を抑えていくという技術開発も進んできたがゆえに、持続できているのである。
成長を止めるということはそういう省エネの技術開発をする力も失わせてしまうことである。
資源の枯渇、人口爆発を心配するのであれば、中国やインド、パキスタン、バングラディシュ、アフリカ諸国などの発展途上国、人口大国に対してどうにかしろ、といわなければどうしようもないのである。
それともなにだろうか。先進国にそういう世界からの移民を受け入れて、先進国を先進国で亡くしてしまって、同じ土俵に持ってくることをお望みだろうか。経済成長をしないとそういうことをはねかす国力、国防力も持つことさえ不可能になってしまうのである。
軽々しく成長を目の敵にするのはやめたまえ。
もちろん、成長するのは、カネの世界ではなく、技術開発を含む実体経済でなければならないので、新古典派経済学がおかしいことは揺るぎがない。おかしな二元論を振りかざして偉そうにしてしまっているところが残念おじさんなのである。