防災の日は関東大震災の日 | ずるずると道・郷・話を愛でる

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少し前になるが、9月1日は防災の日であり、関東大震災が起こった日である。

関東大震災 - Wikipedia

関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年大正12年)9月1日11時58分32秒(日本時間、以下同様)に関東地方又は近隣で発生した大正関東地震による地震災害である[注釈 1]。神奈川県・東京府を中心に千葉県茨城県から静岡県東部までの内陸と沿岸に広い範囲に甚大な被害をもたらした。加藤友三郎内閣総理大臣8月24日(震災発生8日前)に急死していたため、9月1日の地震発生時およびその後は内田康哉内閣総理大臣臨時代理として職務を代行した。

大正の世を謳歌していた帝都東京を襲った大地震である。

当時の東京は、多くの木造住宅がひしめき合い、昼飯をこしらえている時間帯だったこともあって、倒壊した家屋から多くの火の手が上がったという。その結果、記事にはられているような焼け野原と鳴ってしまった。この日を防災の日として後世まで知らしめて、天災が起こった時に備えてしっかり準備しましょうという日なのである。

この時の、地震→火事という流れから、地震が起こったら、火の始末を優先に!ということが言われていたのである。
 

身近な若い人に聞いた時に、なんで防災の日は9月1日なんですか~?と言われてちょっとショックだった。・・とも思ったが、敢えて防災の日を9月1日にする、というのもその意味合いは薄れているような気もするなぁと思って、防災の日のもととなったこの地震とその関連事項を改めて見なおしてみたのである。

 

引用記事では、写真であったが、動画もあった。

 

 

 

東京地区は、1923年の地震から、昭和時代に入って復興を遂げたのであるが、御存知の通り、配線が確定的に鳴った昭和20年の大空襲で、再び焼け野原に戻されてしまったのである。

東京大空襲

東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍により行われた、東京に対する焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃の総称。日本各地に対する日本本土空襲アメリカ軍による広島・長崎に対する原爆投下沖縄戦と並んで、都市部を標的とした無差別爆撃によって民間人に大きな被害を与えた。

早乙女勝元によれば、空襲としては史上最大規模の大量虐殺とされる[1]。東京は1944年昭和19年)11月14日以降に106回もの空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日4月13日4月15日5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上と著しく多い1945年3月10日の空襲(下町空襲)を指すことが多い[2][3]。この3月10日の空襲だけでも罹災者は100万人を超えた[3]

復興で建物が不燃のものに鳴ったのかと思ったらそうでもないところが多くあり、それを調べて、日本人を猿以下だと認定した米軍が皆殺しにしようと米軍が、砂漠地帯でわざわざ実験したあと、焼夷弾を地域を囲むように落下させに効率よく焼きつくすというむごたらしいことを行ったのである。この3月10日の空襲がその集大成といえるだろう。これを経て、再び焼け野原にもどった。

 

 

 

上京してそれほど立っていない時、両国の江戸東京博物館に行ったついでに街を歩いていると、次のような施設があったので見学したことを思い出した。

東京都慰霊堂 - Wikipedia

 

その後、防災の日は続いている上に、関東を襲う地震の情報は、関西に住んでいた自分でさえ教育でしっかり印象付けられていた。子供の頃に見た日本の地震パニック映画も舞台は東京だったのである・・。

地震列島 - Wikipedia

 

 

今に至るまで関東が震源の大地震は起こらず、他の地域の地震が連続した。

当方が印象的なのは、やはり、1995年1月17日(火曜日)に起こった阪神淡路大震災である。一応被災したのであるが、幸いにも家が倒壊することはなかった。6000人もの人が死んだということで驚愕したのであるが、多くは、建物倒壊による圧死が圧倒的であった。関東大震災の時のような街を覆い尽くす火事は起こらなかった。

 

阪神・淡路大震災

 

この時の教訓として、電気はすぐに復旧しないほうがいい場合がある、ということがあった。地震が落ち着いてから起こった火災は電気のショートなどが原因のことも多かったのである。

あとは、取材ヘリの音がうるさくて、生き埋めになっている人の声が聞こえないこともあったという。

 

そういえば、故筑紫哲也の、ヘリから現地を写した映像を見て、まるで温泉街のようですね、と、気持ちのこもった言葉を残したのが記憶にのこっている。この辺りから、サヨクの人々の存在やその関係組織に興味がでてきて、別冊宝島などを経て、【ネトウヨ】的な考え方にシフトしたような気もする。おかげで、地元の選挙区からでていた土井たか子が嫌いになった。

筑紫哲也 - Wikipedia

 

 

サヨクは、なんか耳障りのいいことを言っているが、なんか自分が囚われた考え方(イデオロギー)を推進したがっているだけで、人の暮らしとか人の命とはどうでもいいんだ、

 

という感じ方であった。

それは、現在の保守派と言われる人々、あるいは、その多くが崇め奉る安倍晋三や政治家の連中も、同じような感覚で捉えられてしまうのである、サヨクではなくて、そういう偽物のホシュも、同じ穴のムジナなのである。

 

この地震の際の、この時の隠れた変化としては、水道の蛇口のお手軽版、すなわち、ひねるタイプではなうて、片手で上げ下げするタイプの蛇口が広がっていたのであるが、この地震までは、たしか、上にあげて止めて、下に下げて水が出るという形だった。その結果、多くの家の蛇口が出っぱなしに鳴ったのである。そのせいで、今のように役割が逆に鳴ったという話を聞いたことがある。

 

その後、関東地区を襲ったのは、2011年3月11日の東日本大震災の揺れであった。直下型ではなかったから7日実は地震による被害はそこまで大変ではなかったが、その後の巨大津波によって、多くの命が奪われた。人口密度が少ない地域も多かったというのに、死者が2万人を超えるというのはいかにこの被災範囲が大きいかということを物語っている。福島第1原発の廃炉問題など、未だに継続中の案件もある大きな災害であった。

 

最近では、熊本地震も記憶に新しい。

ともかく、防災の日が9月1日であることがなんでだったかを忘れそうになるぐらいに、地震による災害も多くなってきた。あとは、最近に多いのは、台風などによる大雨の災害である。

 

災害は忘れた頃にやってくる。

それでも、人間は忘れたがっている。

足元の嬉々を見ないようにして、格好いいことだけをやろうとする態度というのは、やはり

足元を掬われることなのである。金儲け、名声をえるためだけの行動は、許されるものではない。へらへらして、他に誰が居るとかいってついていくものではないのである。

 

あの得意満面な顔の下で、足元から絡み取られて殺されてしまう可能性があるぐらいの想像力を持って欲しいところである。