これまで40年以上にわたり、動物園や動物たちと関わってきた中で、数えきれないほどの出会いと別れがあった。動物の誕生はいつも嬉しいが、別れはいつまでたっても悲しい。

 思い出される仲の良かった(と一方的に思っていた)動物たちの顔や姿や癖...。

 出会いそして別れを告げた動物たちに対する感謝と後悔の念は今でも変わりない。

 動物園で働き始めた当時、動物が亡くなるたびに自分の責任を問う反省文を手帳に記していた。今でも、その『飼育日誌』と表紙に書かれた手帳を手元に残し、事ある毎に読み返しては初心を取り戻すようにしている。 

 動物園で獣医師として働いていた数十年間、治療に成功して嬉しさを感じた一方で、失敗して悔やんだ経験が少なくない。もしかしたら、後者の方が多いかも。自分の知識や技術不足で動物を死なせてしまったことも少なくない。腸閉塞が診断されたのに手術できなかったカバを解剖したところ小腸から野球ボールが見つかったこと、麻酔に対し遺伝的に過剰反応する個体であることを知らなかったために(海外の動物園に問い合わせ初めて知りました)眠りから覚めなかったアムールトラのことなど…。

 だから、死亡した動物を病理解剖している時には、いつも地獄へ落ちるのを覚悟していた。そして、亡くなった動物たちの生きた証を少しでも残すために、骨格や臓器や細胞やDNAを標本として保存したり論文として記録したりすることで贖罪を求めた。もしも、亡くなった動物たちにいつか天国で会えるとしたら、多少の弁解と謝罪をしたいと思っている。「蜘蛛の糸」が切られないのであればの話だが。

 動物園において生と死は常に背中合わせだが、残念ながら、後者は避けられない。なぜなら、動物が静物ではなく生物だから。

 できれば動物たちに天寿を全うしてもらいたいが、感染症や予期せぬ事故などで寿命に達する前に命を落とす例があるのも事実。そして、その場面に直面する機会がもっとも多いのは動物園獣医師。

 だからこそ、動物に関する最新の知識や情報や技術を絶えず身につけておく必要があると思い続けてきた。誰よりも努力して誰にも負けぬ技能を得ようとしていたのだ。動物園勤務後に大学の研究室へ通ったり、休日には本屋へ行って医学書を立ち読みしたり、動物病院や市民病院で手術のテクニックを教えてもらったり、家計も顧みずに給料1か月分以上をはたいて国内外の学会に参加したり、目的達成のためには手段を選ばなかった。

 その結果としての失敗なら、少しは許されると信じたい。亡くなった動物たちも苦笑いしながら、「未熟な奴やったけど、ちょっとは努力したみたいやから、しゃあないなぁ~」と許してくれるだろうか?

 無理だろうな。

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自宅が燃え尽きるのを見た後に出勤してきた若い飼育係。
電車が動かないため自転車を数時間こいで駆けつけてきた老練な飼育係。
「行かなければならないのでしょ?」もしくは「行きたいのでしょ?」と苦々しく笑う奥さんの許しを得て損壊した自宅から送り出してもらった獣医師。
一週間以上、動物園内に泊まり込んで懸命に働いた職員。
家族よりも職場を優先することが良いのかどうかは分からない。
だけれど、あの時はみんな動物たちを守ることしか頭の中になかったのは確かだ。
一緒に震災と闘った飼育係のこと(幾人かはもうこの世にいない)、外から支えてくれた近隣の人々や動物園仲間たちのこと、ライフラインが途絶えた中での寒さを耐え抜いてくれた動物たちのこと、遺体安置所になった動物科学資料館で組み立て式棺桶を前にして「まさか自分の子どもの棺桶をつくるとはなぁ」と笑いながら言っていたお父さんのこと(私なら狂っていただろうに)。
忘れない。

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『熊襲の穴(鹿児島県)』
酒宴で酔っぱらっていた熊襲の首長(カワカミタケル)を女装したオウスノミコト(小碓命)が背中から刺し殺した場所とされる。
首長は、死ぬ間際に小碓命の勇猛さを讃えて自らの名を与え、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)に改名したと日本書記に記されているらしい。
「どこが勇猛やねん!」とつっこみたくなる。
ひんやりとした洞穴の中で、某大学の卑劣な後ろからタックルを思い浮かべた。
65年前に書かれたとは思えない論文を紹介します。

『動物園長職責論』
山本鎮郎(元神戸市立王子動物園長)
動物園水族館雑誌第1巻第2号(1952年発行)所収

§1 まえおき
 動物園長は対内的対外的にいろいろのシゴトをもっている。
 ”園長は如何にあるべきか"ということと、"園長の現実のすがた"とは多少のズレが生じている。それは園の規模や、都市の職制、又市民全般の動物園に対する態度等から来ていると思われる。
 以下に記す所は私の園長のあり方についての考えを述べたものであつて、必ずしもすべての動物園にあてはまらないかも知れない。読者各位のご叱正を仰ぐことができれば幸いである。

§2 動物園長は管理者である
 動物園の園長は動物園の管理責任者である。このことは、先ず疑う余地がない。
 管理ということの中には
 1. 維持 メインテナンス
 2. 運営 マネージメント
 3. 支配 コントロール
 4. 改良 インプルーブメント
等、種々の作業が含まれていると思う。単なる維持だけではなしに、動物園という施設をフルに動かす、活用することが管理の中に含まれていなければならない。それでなければ管理者として充分活動しているといい得ない。もちろん園長に与えられている権限には自ら限界があり、その権限を逸脱することはいけないし、経済的にもそれぞれ予算のあることだから、その面からの制約もある。ある一定の枠内で、できるだけ園をうまくやって行くというのが管理者たるものの常識だろう。
 又園の規模大小、職制等経営の内部的規制によって、園長の権限の大きさもそれぞれちがっていて、一律に述べることは出来ない。例えば上野の園長の権限は非常に大きいが、他の動物園では、観光関係の職員が、園長を兼ねているような場合もある。
 ただ動物園長が他の施設と違った点は動物の管理責任をもっているということになる。この点においても、単なる維持でなく、
 1. できるだけ永生きさせる
 2. できれば繁殖させる
といったことが管理の内容にあるわけである。
 そのためには動物についての専門的知識が必要であるが、動物の管理について責任を持つ為には、園長が動物の専門家であることが望ましいと言い得る。この意味において上野動物園その他が、処務規程中に
 “園長は技術吏員の中より知事(市長)が命ずる”
とあるのは正しい。
 博物館法はこの点はっきりしていないが、国際博物館会議憲章、国際動物園長連盟規約等は、園長が動物についての専門的知識をもった学者又は技術者たることを予想している。
 事実世界一流の動物園と目される動物園の園長は、学位又は教職の資格をもつ学者又は技術者であることが多い。
 最近わが国では園長が事務吏員であるケースが多くなり、6大都市の動物園では上野、大阪の2園のみが、技術吏員の園長であるのは、上述の意味からすれば必ずしも賛成できないことである。
 動物園は単に動物や動物舎だけではなく、種々の公園施設をもっていて、その維持だけでも大へんな仕事である。単なる修繕では時代の要求にアピールできず、従って運営上収入に影響する面もあり、園長は詳しい改良の計画をもっていなければならない。植栽や遊園についても、動物舎との関係を考慮すべき面があり、又博物館法にいわゆる教育的配慮ということも必要となって来る。この意味で園長は単に管理者としてではなく、教育者であることが望ましいことになる。管理者としては、一般行政職と等しく、行政上の事務にも通じているべきであり、部下の職員はそれぞれ分担して仕事をしている関係上、園全体のことについては園長が最も豊富な情報と経験をもっていなければならない。
 運営面では動物園を一つの商品に見立て、たえず品質の改良を心がけ、又PRに努めねばならないであろう。反面経費の節約も必要である。
 園長の職責として“園長は建設局長の命を受け、園の事務をつかさどり所属職員を指揮監督する”(註1)
といった定め方が普通であるが、支配の面では、人の管理と物の管理の両面がある。この両面の仕事も生易しい仕事ではない。いわば園長は有限の権限の下に無限のシゴトをかかえているといった方がいい位である。
管理上の責任を充分に果すためには、園長はいつでも園と連絡をとり得る位置にいなければならない。長期間園長が不在であることは、その間の種々な問題を適当に解決するために都合が悪いであろう。けだし園内に起ったあらゆることがらに対し、園長は責任を有し、責任を以て解決すべきであるからである。その面の不都合をさける為に代理者をおくことは当然の要請であろう。
なお園長として社会が普通要求している管理上の義務を怠った場合は、責任を生ずるであろう。それは普通の職員の注意義務以上のものがあると考えられる。殊に社会通念からすれば、園長は動物の専門的知識のもち主であると考えていよう。従って園長は園内の出来事に対しては、部下の職員より高度の責任を有することは当然である。
(註1)上野動物園処務規程

§3 園長は教育者である
 園長が単に園の管理者であるばかりでなく、出来れば教育者であることが望ましいと思う。教育者というのは単に知識技術の所有者であるに止まるものではなく、不特定の大衆に対して、正確な動物についての知識を伝達すると同時に、関心を持たせ、動物愛護の精神を吹き込むことができなければならない。
 具体的には新聞発表、園内展示物等について学術的正確を期しなければならない。いいかえると対外的な発表には園長は責任をもたねばならない。
 博物館法は必ずしも園長が教育者であることを要求していないが、園の教育活動を重視していることはもちろんであって、そのために学芸員制度を設け、必須試験科目に“教育原理” “社会教育概論” “視聴覚教育” を含めている。
 園長は少なくとも学芸員を指導し得る立場にあると考えられるのであって、園内職員の訓練にも責任を持ち得る者であることが理想であろう。いいかえれば職員の直接監督者として、単に服務上の面倒を見るというだけではなく、必要な訓練が出来ることが望ましいであろう。
 教育的配慮ということは、学術上の正確と同時に、分かり易く覚え易いといった一面を含んでいなければならない。だから案内書やパンフレットの如きも、その内容は正確且つ平易で魅力に富むということでありたい。同時にその内容については園長は責任を有する。
 動物園は不特定多数の入園者にその存在を依存しているが、一面動物に趣味を有する一般社会人、又学校団体、芸術家等への教育活動の分野もあることを忘れてはならない。
 園長は余力があれば“教育プログラム”を編成して、大学やその他の学校では行い得ない社会教育上の任務を果たさねばならない。
 最近では視聴覚教育が漸次発達し、映画やテレビの教育的機能が重視されつつあるが、動物園も単に宣伝のみならず、視聴覚教育資料を充実し、適時公開して、園内外の活動を拡充すべきであろう。
 動物園の教育的使命を如何にして果たすかはやはり園長の責任である。この意味において園長は教育者でなければならないと思う。

§4 園長は研究職である
 園長は種々対内的対外的のシゴトをもっている。従って研究に専念することはわが国のような場合種々困難が伴っている。
 しかしながら本来動物園は博物館であって、川村多実二先生のいわれるように、
 “今世紀に入って博物学のうちで、実験を必要とする諸分科の研究は大学でやり、分類学ならびに応用方面の研究は博物館でやるというように、両者分業の時代となったのである”(博物館研究第31巻第1号17頁)から、園長は分類学的研究の面では専門の研究者をおくか、自ら研究を進める必要を生じて来ているのである。
 ただ一般に“動物園”そのものの博物館的使命に対する自覚が比較的わが国ではおくれている為めに、乃至は各動物園が戦後再開若しくは開園して、まだ新しいために、人員も充分ではなく、研究面は必ずしも進んでいるとはいえないであろう。
 実際には私共にとって同定の困難な標本を持って来られることもしばしばあるのである。
 分類学上必要な図鑑や文献類はできるだけ多く揃えてもっていることは、当然必要であるが、同時に自らも研究をすすめていることが大切である。
 分類学上の研究は必ずしも短時日にできることではなく、又園長としてはそう容易に時間が割き得ないのが普通である。
 現実には動物園は一二の例外を除き、そこまでゆとりのある経営ができていず、たえず人員不足になやまされているし、又必要な記録も充分とっておくことができない程いそがしくて、研究活動までなかなか手がとどかない状態である。従って園長としてはそれだけ図書資料にたよらざるを得なくなるのである。
 稀少鳥獣の保護も一つは動物園の使命となっているが、それには生態の研究が整っていることが前提となる。この様な意味から園長は研究職を兼ねるものである。
国際動物園長連盟の規約は“本連盟は科学的基礎の下に運営される動物園及び動物公園の責任ある指導者である園長又はその重要なる部門の指導者であって、且つ科学的教育を受けたものか、又は動物園、動物公園における其業績によって本連盟の会員として、科学的訓練を受けた人々と同等の教養を有することを証明された人でなければならない。
 本連盟の会員となるには会員2名の推薦により、且つ会員の5分の4の投票を得なければならない。“
 と厳格な規定を設けている。特に同規約には“世界の動物の保護の推進”という他の種の博物館には見られない役割が明かにされており、動物園の国際的文化的性格が強く打出されているのである。
 従って少くとも動物園長は“動物の保護”に深い関心をもつべきであり、進んで一般的な研究から、特殊の研究へと、他の動物園と連絡をとりつつ、よし自らの手でなくとも研究的努力を払うべきであろう。或は職員に研究上のテーマを与え、指導を行い得ることが望ましい。

§5 結び
 動物園長は単に管理者としてのみでなく、教育者、研究職の一面があり、又そうであることが理想である。社会の常識からもそう考えられているであろう。
 現実には動物園は教育施設でありながら、建設局又は経済局等の所管であり交通局の所管である場合もある。そうした内部機構の面から、教育的配慮とか、科学的基礎による運営の面がおろそかになる傾向を持つ。
 しかしながら園長としては、動物のへい死原因、飼料の規格化、動物のかん別等、種々専門的な問題の解決を迫られており、管理上の責任を果たすためにも、研究能力なり時間なりを与えられていなければならない。
 現実には困難であるが、この困難の解決のためには、園長が国内的国際的に協力し合う共通の広場を持つべきであろう。その意味において、過去数年間の日本動物園水族館協会が行って来たシゴトは充分に評価せられるべきであろう。