絶対神のブログ

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宗教をテーマとしたエッセーです
宗教に悩んでいる人は読んで下さい
キリスト教が主です

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それ自体はどうにもならない

だから人は宗教に頼り信じもする

 

人間は弱いものだし

人生には思いもよらない不幸や落とし穴がたくさんある

 

ままならないものなのである

 

宗教を信じようと信じまいとそれはかわらない

 

だからけっきょく、宗教を信じたところで人は救われない

宗教を捨てていく人間なんて無数にいる

 

はっきりしていることは

 

神という存在は別に真面目に誠実にいきたところで答えてくれる存在ではないということだ

 

時に残酷で非情な答えを用意している存在だということだ

信者を助けてほしい

せめて死後救ってほしいw

 

繰り返すがクリスチャン以外にいくら非情な運命を下そうとかまわない

永遠の地獄に落とそうと一向に気にしない

 

クリスチャンだってこの世ではいくらでも地獄を経験するのだから

でなければわりにあわない

 

だがせめてクリスチャンだけは死後救ってほしい

聖書の矛盾や色々な矛盾なんて

ささいやこととして誰も気にしないw

 

実際に守ってくれるのなら聖書の歴史的記述のいい加減さなんてどうでもよい問題で

全部信じてもよいくらいだ

 

宗教の問題のすべては

実は神が信者を守らないことに起因しているのである

 

これが言ってみれば諸悪の根源で

 

異教徒やクリスチャン以外にいくら非情な運命を下そうと気にはしないがw

 

神は、平等に、クリスチャンにも非情な運命を下すから信者に離れられてしまうのである

 

いかなる理由をつけようが、苦しいときに助けてくれないような神では駄目なのだ

それははっきりしていて

リベラルにも原理主義にも決して否定はさせない(程度の差こそあれ、神が愛であると主張しているのなら両者が非現実的で妄想的であることにあまり違いはないのである。まあリベラルは神が愛であると認めていないところもあるだろうが)

 

つまり、私が原理主義者をやっているのは洪水で人類を滅ぼしたりする

神の非情性を素直に認めているからである

 

神が愛であるとかいう以前に

神が峻厳な「絶対者」である点を認めているからこそなのだ

 

神が信者を守らない事例なんてこの世でいくらでも確認することができる

という人にはまったく同意できない

 

私がリベラルに同意しないのは単に非聖書的だからではない

非現実的だからだ

 

この世界の現実を見ればどー考えても神は信者に優しくない

助けることもしない

天災などで平気で殺す

 

誰でもよく分かるように、この世界を支配している神というものがもしいるとするならば

それがひとりひとりに情愛を持っているということは「あり得ない」

 

神を絶対者と認めてもよい、この世界の支配者と認めてもよい

 

だが神がひとりひとりの人間を大切に思っている愛であると認めることは「絶対にできない」(それは現実にも理性にも反する)

 

そういう意味では逆に残酷な聖書の神は「正しい」のである

聖書記者も、神が残酷でこの世で起こる不幸が明らかに道徳的規則性がない恣意的なものであることを知っていたのだ

 

キリスト教が「神が愛である」というなら、「私はその部分にはそういう意味では同意しない」

 

異教徒はいい、信じていないものにはどんな非情な運命を下してもかまわない(だって神を信じていないのだから)

 

だけれども、だって「実際に神は「信者を守らないもの」」

 

そういう意味では神はいたとしても人の目からみれば「明らかに不当な存在である」

 

そういう意味では、私は「神は愛であるとは思わない」(イエスを本当に犠牲にしたのならそこの部分では確かに神は愛であると思うが)