オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義/春秋社



オウム真理教関連の著書は多くが、事実を羅列するだけのルポルタージュのようなものが多い。オウム真理教が掲示した宗教的な幻想はどこに由来し、なぜ人々はそれに取りつかれてしまったのだろう?

本作では、近代になって登場したロマン主義・全体主義・原理主義という3つの思想的背景に着目する。現代では宗教は内心と捉えられがちであるが、もともとは社会統合のツールであった。しかし、近代になり「政教分離」が進み、宗教が公から追放されることで、心情的問題に矮小化される。その結果、宗教が、個人の妄想と区別がしがたいという事態に陥るのである。

(1)ロマン主義
ロマン主義は、啓蒙主義に対する思想である。啓蒙は理性の光で闇を照らせというが、理性の光でも暗部は残るのではないか?そうした暗部を強調するのがロマン派である。近代に入り人口が拡大し、社会も複雑化した。世界の全体像を把握することが困難になったのである。また、人口が都市部へ移動し、個が置き換え可能な社会の歯車と化す中で、そうした置き換え可能な私は偽りであり、どこかに本当の自分がいると考える人が出てくる。理性では把握しきれない何かを求める潮流が近代にはあるという。


(2)全体主義
全体主義とは、群衆を特定の世界観に同化させようとする思想である。肥大化した社会で生きると、根無し草の群衆は目に見えるものでは社会をすべて把握しきれないという感覚に陥り、自己の知覚を信用しなくなる。そうした不安から逃避するように、自らを包む統一的な不可視の体系を掲示されると、その実在を信じ込んでしまう。H.アーレントを引用し、また心理学の知見を用いながら、全体主義について論じている。


(3)原理主義
原理主義はキリスト教プロテスタントの一派を指す用語である。原理主義の要素は、聖典の絶対視、善悪二元論的世界観、終末論、神権政治的ユートピア思想である。なぜ、近代になり原理主義が台頭したのだろうか。聖書の世俗化、主権国家への反発、聖書の通りイスラエル王国が建国されたこと、世界大戦によって世界滅亡が現実味を帯びたこと、流動的な社会で不安を常に感じる状況に追い込まれたことなどが理由だという。


ロマン主義は「生死を超越する自己」、全体主義は「強固な共同体」、原理主義は「終末後の神との結びつき」を求める。オウム真理教はそうした近代社会の思想潮流に生まれたのである。一つの疑問は、なぜ日本にそうした宗教が生まれたのかという疑問である。第一に、江戸時代に政治中枢にもいた仏教が周縁部に押しやられ葬式にのみ登場するようになり、伝統宗教が空洞化したことである。第二に、東京の超巨大化である。精巧な機械のような社会で、人は置換可能な自己を強く認識せざるを得なかったのであり、隠れた自己への希求を強くさせた。第三に、天皇という現人神という指導者のもと、負けるはずがない戦争に悲惨極まる敗北を喫する。日本のこの敗戦体験こそが「終末論」をリアリティあるものにする要因ではないかという。


文体も分かりやすいので、非常にオススメ。

オウムだけではなく、近代社会を考える上でもオススメの一冊。

本当に名著。


正直、日本の保守者(≒国粋主義者)はこうした近代の三側面があるように思う。日本民族の至高性を語り、経済の発展段階も考えずに中国韓国を劣っていると糾弾し、道徳教育で民族的一体性を造成しようとする(全体主義)。日本神話などの物語や教育勅語などを絶対視し(原理主義)、教育や武道を通して内に眠る日本のメンタリティを復活させようとする(ロマン主義)。こうした傾向が歴史上何を生み出したのかはあえて語るまでもない。日本の情緒的反知性主義者には、注意が必要である。