陸奥宗光 | 時勢論

陸奥宗光

陸奥くん

【はじめに】

陸奥宗光(1844~1897)

弘化元年紀伊和歌山城下に生まれる。
父伊達宗広は八百石取りの重役で、紀州藩の財政立て直しに貢献した勘定奉行であったが、藩内政争に巻き込まれ失脚し家族は四散。宗光は恵まれない幼少時代をおくっている。十四歳春、出家し、江戸に出て儒者安井息軒の門人となる。十六の頃から吉原通いをはじめ息軒に破門され、 将軍侍医の花岡真節邸にころがりこんだといわれる。義理の兄である伊達宗興が京都粟田口青蓮院にはいり、門主の中川宮に
仕えていたのをきっかけに、宗光も勤皇の志士として動き始める。
坂本龍馬の推挙を得て、勝海舟の海軍操練所に入るがやがて操練所が閉じられ、龍馬が海援隊を組織するとこれに加わり、副長格で活躍した。坂本龍馬が慶応三年十一月十五日、京都近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺されたとき、それまでほとんど剣技に縁のなかった宗光も、慶応三年十二月七日、中井庄五郎、土居通夫らと天満屋事件をおこす。宗光は、真っ先に刀をとり海援隊隊士を含む十六名で、龍馬暗殺の
噂が高かった見回り組を襲撃したが、失敗に終わる。

維新後、二十五歳で大阪府権判事に、ついで兵庫県知事、和歌山藩大参事、神奈川県知事、元老院幹事を歴任。明治十年西南戦争のとき、西郷隆盛に呼応して立ち上がろうとして政府転覆の嫌疑を受けて入獄。十五年、特赦出獄。再び政府に出仕し、駐米大使、山県有朋内閣の農商務大臣、元老院議官、伊藤博文内閣の外務大臣となり、イギリスとの治外法権撤廃の条約改正、清国との講和条約調印、三国干渉など外交問題を処理し、カミソリ大臣とうたわれる。
明治三十年八月、東京西ヶ原に没す。享年五十三歳。

彼は龍馬との縁で海援隊に入隊します。入隊直後は”生意気だ”ということで、他の海援隊士とはあまりうちとけられなかったといいます。ここでいう”生意気”は「うっせんだよ~」と中学2年生の男子が母親や担任の先生にいうようなことではなく、海援隊の進むべき方向や日本の将来について陸奥自身の考えが他の隊士より優れていたということです(出る杭は打たれるというやつです)。若かれし頃の宗光は、先輩をものともしない思想の持ち主で口がたち、他の隊士から煙たがられていた・・・ しかし、龍馬はそんな陸奥でさえもかわいがり(ホモということではありません!)、陸奥に絶対の信頼をおいていました。

龍馬の暗殺後、剣術の経験がほとんどない彼が真っ先に仇討ちへ向かったといいます。

そんな熱い男、陸奥宗光、海援隊士の中では最も出世した人物です。