・2016年3月9日追記
1巻が出たので感想書きました。

鬼頭先生が新連載を描くというから、その事についての現時点での観測と、いくつか書いておいた方が良いと思ったことについて書くことにする。

まず、新連載である『双子の帝國』について。
 


(http://www.comicbunch.com/newbunch/next/より)

来週のバンチにて始まるらしい。

この画像を見て初めに感じた印象については後々書くとして、構想十年だそうです。

長い構想の果てに出来た作品と言えば、例えば『ヒストリエ』があるけれど、この『双子の帝國』はどうだろう。

十年かぁ…

随分長い事構想していたみたいだけれど、十年前って鬼頭先生何やってたんだろう。

ということで調べてみる。

滑走キで調べる。

こういう時、滑走キは便利だなぁ。

で、十年前と言えばちょうどチズ編の最終話あたりだそうだ。

いやまぁ、バンチの上の画像が公開されたのが大体7月ごろだからね。

これを知った時僕は何を思ったか。

駄目みたいですね….。(諦観)

ということ。

少なくとも、僕が求めるなるたる的なもの、ぼくらの的なものは存在しない作品になりそうであるという観測をせざるを得ない。

それは何故か。

以前、鬼頭先生が自転車に乗り出したのは恐らくチズ編最後あたりだろう、と書いたけれどそれは別に理由もなしに言っているわけではない。

そもそも、なるたるとぼくらのは鬼頭先生が言っている通り…いや、インタビューで言っているのだけれど、わざわざリンク先探すのめんどくさいから持ってこないとして、とりあえず、八割方物語の成り行きが完成している状態で描きはじめている。

それでも八割と言っているのは、実際に書く時に生じる誤差のことを言っている。

セロトニンが足りな過ぎて実質十割完成してても、描いている途中に生じるかもしれない誤差の事を考えて、自分が後に嘘つきになることが不安でそうは言えないということ。

なるたるの方でそうであったかは判然としないわけだけれど、ぼくらのは間違いなくそうであるようで、これは何故かと言えば、セロトニンが足りな過ぎて楽観的に考えられないので、全て出来上がった状態でなければ漫画を描きはじめられないということが理由になる。

つまりは、何が起こるかどのような事が生じるか、ぼくらのに限定するならば、15人がどのように死ぬか、ということまで全て構成した上で漫画を描きはじめているということ。

まぁ、おそらくそうであろうという話に過ぎないのだけれど。

で、ぼくらのなのだけれど、序盤は本当に鬼頭先生が描きはじめた当初に企図していた風に登場人物が動く。

けれども、ある時を境になんだか登場キャラクターの心理状態がさばさばしてくる。

チズまでの子供たちは、どうして?という強い気持ちを抱いていることが分かる。


(鬼頭莫宏『ぼくらの』p.197)

パパ(がどうして)?というシーン。


(2巻p.74)



(2巻p.199)

どうして?の答えがどうしようもないから、ということ。


(3巻p.11)


どうしてオレが?のシーン。まぁ、正確にはどうしてではないんだろうけれど、心理状態は同じだな。


(3巻p.195)

このように、チズまでのワク以外の全員が何らか「どうして?」を抱いていることが分かる。

ワクは何も知らないで死んだから抱きようがないわな。

しかし、モジ以降にそれは存在しない。

存在しないんだから引用できないくらいに存在しない。

なんだか、モジ以降は全員その死を「どうして?」なしに受け入れている。

ここで問題にすべきはこの「どうして?」。

これってつまり、鬱病特有の思考形態と言える。

鬱病は病気だから、考えが全て同じ指向性の元、悪い方へ悪い方へ向かっていく。

見たものは全て悪いものだと思う。

与えられたものは全て悪いものだと思う。

そう考えてしまうのは病気だからであって、鬱病の時に考えるすべては無意味なものに過ぎない。

その考えの中の一つに、「どうして?」と言うものがある。

それが何で生じるかは知らない。

けれども、実際に生じる。

どうして?どうして。

この世界はどうして。

僕はどうして、私はどうして。どうして。

思考がそれに支配される。

ぼくらのを見ていればわかるように、チズまではその「どうして?」という思考をある程度ともなっていることが分かる。

けれども、それより後は存在しない。

何処か、パイロットたちは達観している。

これをどう考えるかということなんだけれど、要するに、鬼頭先生が自転車を始めたのはこの頃だろうということ。

確かな根拠なんてどこにもない。

けれども、恐らくはそうだろうということ。

鬼頭先生は八割と言っているけれども、ほぼ全てのストーリーを完成させてから漫画を描きはじめていた。

それはペシミストだからだけれど、描きはじめる前に決められるのは「何が起こるのか」ということだけであって、登場人物の心理状態は決められるっちゃあ決められるけれど、描いているその時のそれが反映されてしまう。

すなわち、チズまでは鬼頭先生がそのような思考形態、「どうして?」と思ってしまう思考形態を持っていたから、登場人物も「どうして?」と考える。

反対に、それ以降は鬼頭先生が「どうして?」と思わないから、登場人物も「どうして?」と思わないのだろうということ。

確実と言えるわけではないけれど、高い蓋然性は持った話だと思う。

そして、『双子の帝國』。

構想を始めたのは10年前で、10年前と言えばちょうど鬼頭先生がチズ編のラストを描いて居た頃になる。

正直、チズ編のラストは僕は「鬼頭先生の作品としては」好きじゃない。

それ単体では別に好きなんだけれど、鬼頭先生へわざわざ求めるものとしては好きじゃない。

蛇足のような挿話だと思ってるし、必要ないとすら思ってしまう。

これは恐らく、チズ編を書き終えた後に、それ以前の情緒では肯定されてしかるべきチズの物語だけれど、健全化された鬼頭先生の情緒では否定とまではいかなくても、何処かフォローにあたるものを入れたくなったということなのだと思う。

と、するならばおそらくはこの時期にセロトニンが分泌され始めたわけであって、この時期に自転車は始められたのだろうという推測が成り立つ。

そして、『双子の帝國』はこの時期に構想が開始されたということになる。

駄目みたいですね…(諦観)

正直、バンチのサイトの告知の絵を見た時点で、コレジャナイ感に満ち溢れていたわけだけれど、それには根拠はなかった。

そこから、10年間の構想に着目して色々見てみたけれど、やっぱり駄目みたいですね…

現状提出されているモノから判断するに、おそらくは『なるたる』『ぼくらの』系列の良さは存在しないだろうということ。

半面、『のりりん』が楽しく思えるような人たちにとっては良作になり得るだろうということ。

まぁ、そこら辺は個人の好みなので、のりりんが好きなら『双子の帝國』も好きになるだろうという予測ができる。

現時点で観測する限りは、以上の様になる。

けれども、実際に始まってみなければ分からない。

とは言っても、まぁ、ね。

仕方ないね。

以上が「鬼頭莫宏の『双子の帝國』の現時点での観測」になる。

以下はこのサイトについてのちょっとしたことをちょっとずつ書いていく。

まず、アクセスについてなんだけれど、やっとこさ「なるたる」で検索して1ページ目に表示されるようになった。

予想を上回る結果だなぁ。

アクセス数もこの一年前の何倍あるんだろう。

一か月以上更新してないのに…

先月のアクセス数はギニュー隊長と戦った時に悟空と大体一緒ですね…。

アフィリエイトでも貼れば儲け出るんすかねぇ?

とりあえずこのページ下部に『残暑』でも貼りつけておくか。

そんな風にアクセスはあったけれど一部の特殊を除いてほぼコメントはなかった。

なので、この記事以外の内容に対するコメントへの返信は今後行わないことにする。

僕は議論が好きじゃないから、コメントが心臓に悪すぎる。

言い負かすのも言い負かされるのも好きじゃないから、とにかく、コメントで記述内容の正誤のやり取りは打ち切ることにする。

というか、知っている人もいるだろうけれど、僕はもう疲れたよ。

とにかく理想と現実をしっかり見極めてからものを言ってもらいたかった。

・2016年1月28日追記
別に普通に内容についてのコメントが来たら返してます。これを書いたときは非常に疲れるコメントを残す人とやり取りしたあとだったから、もう嫌だという話でそういう風に書きましたが、そういう方はあれ以来コメントをしてきていないので、普通に返してます。

あと、このサイトは書くことないからよっぽどのことがない限り更新しない。

仕方ないね。

今月とか一日で1万アクセスの日とかあったけれど、これからは順調に下がっていくと思う。

というか、誰しも彼しも、別にのり夫が虐殺されてるのをweb上で読みたいから読んでるに過ぎないのであって、そこからアクセス数が伸びてるだけであって、正直、僕の書いたことはあんまり意味ないということは自覚している。

のり夫が惨殺されるのを誰かが読もうとクリックするたびにアクセス数として加算される。

みんな趣味悪いなぁ。

でものり夫はあまりにも哀れだから仕方ないね。

このサイトについてはこれくらい。

あと二つ。

まずは、「なるたる 明 虐待」って検索ワードがあった。

意味不明だったからググったのだけれど、一部アキラは父親から虐待されていたと考えている人が居るらしい。

まぁ、発想の根拠はここだと思う。


(『なるたる』4巻p.174)

ここを見て、アキラが虐待されていると勘違いしたらしい。

正直、なんで手を振り払ったかは分からないけれど、多分「今ビンカンなんだから触んな」って事だと思う。

とはいえ、この事で明が虐待されていたといえないということは間違いない。


(6巻p.9)

少なくとも優しくしているということが分かる。

これって多分、過保護に育て過ぎたがゆえにあんなになったということだと思う。

また、少なくとも父親の方はアキラを性的な目で見ていない。


(9巻p.181)

母子間で父親の取り合いなんて、フロイトめいているなぁ。

エレクトラ・コンプレックスっていうんですかね?

このシーンから父親はアキラを性的に意識していないことが分かる。

よって、優しくされていて、愛情が故の性的虐待もない以上、虐待はなかったと考えるしかない。

以上。

あとね、どこで読んだとかは言わないけれど、僕の鬼頭先生の解説を読んだ末に運動したけれど、憂鬱だという方がいらっしゃった。

素直に運動の量が足りないと思います。

けれども、この夏がこんなに暑くなるとは鬼頭先生の解説を書いた時には想定できなかった。

こんなクソ暑い中を運動したら死んじゃう。

ただでさえ運動不足なのだから、半月ほど様子を見た方が良いかもしれない。

焦る気持ちが存在するだろうけれど、それって鬱病特有の病的な思考だから気にしても無駄だよ。

焦っても空回りするだけだから、とにかく、今は運動以外の負担になることを避けて安穏と暮らすしかない。

負担をかけても良いけど、碌な事がない。

どうして?と当然思うだろうけれど、鬱病だから、で全ては終わる。

そういう病気だからね。仕方ないね。

体が動かせるほどに元気になったら、2時間連続して体を動かす。

ここで2時間と言っているのは、あくまで20代男性の例でしかないのだから、個体差と言うか個人差は考えなければならない。

恐らくは筋肉の使用に関係がある。

僕は女性より最初から筋肉の量が多いから、言ってしまえば2時間で済んでいるのかもしれない。

だから、女性の場合のことを僕は知っているわけではない。

けれども、女性であっても恐らくは運動で快方に向かう。

女性の場合はどれほどの運動が必要なのかなぁ。

とりあえず休憩時間抜きで日に3時間はやってみてから、色々判断はしてもらいたいけれど。

というか、鬼頭先生の解説に書いた軽くなった経験の話って、あれって新宿から松戸まで行った日なんだから、相応の運動量は必要だろうということ。

あと、しっかり食べなきゃ出るセロトニンも出ないよ。

セロトニンはタンパク質が材料らしいので、肉食って運動しろ、ということですね。

女性の場合の問題は食べ物かもしれない。

僕にも運動してても絶対的な食事量が足りないせいで元気なかった時期もありましたし。(参考、その1その2。前者は孤独を理由に求めているけれど、普通に毎日基礎代謝以下の食事しかとっていなかった頃の話であって、恐らくは食事が原因だった。後者も前半はそれと同じだけれど、ちゃんと食ったら孤独でも寂寥感はなかったという話)

薬を飲んでも原因が取り除かれなきゃ治るわけがない。

その状態になった原因は知らないけれど、少なくとも長引くのは今ある運動不足のせいなのであって、それを除かない限りどうしようもない。

そういう薬を飲んで治すって、要するに癌なのに鎮痛剤だけ飲んで「治らない」って言っているようなもんだからなぁ。

大本の原因を取り除かなきゃ、そりゃ治らないよ。

夜は寝れないだろうし、朝は起きれないだろうけれど、運動すればそれは取れるよ。

そんな感じ。

では、さようなら。