本当は当分書く予定がなかったけれど、今日偶然にもこの記事を書くことが可能的になったために更新する。

今までの経験上、「なるたる 須藤」とかで検索するとこのページがGoogleの一ページ目に来るようになるだろうけれど、そんな事は知らないね。

とりあえず、そんな憂慮とか一切せずに今までの仕方で須藤の事も解説していく。

何で須藤の事がこんなに後回しになったかと言えば、須藤の最初の登場シーンについて解説できなかったから。

だから当初の予定だと、その事について「鬼頭先生の設定が甘かった」とかなぐり捨てて他のシーンの解説をする予定だったけれど、今日、あのシーンの意味が分かった。

よって解説をすることにする。

やり方は鶴丸の時と大体一緒。

まず目的を明らかにして、その前提の上でなるたるが始まる以前の須藤の前史について書いて、そこから個別的な解説を行っていきたい。

須藤の目的についてはここに詳しい。

正直、これを読めば万事OKとも言える。

けれども、シイナと涅見子以外全ての主要キャラクターを解説してきたのだから、須藤の事も解説する。

須藤の目的は「虚無へと収斂する破壊」を実行して、それを見た涅見子と秕に、鶴丸が実行した「混沌へ拡散する創造」とどちらがより良い選択であるかを判断させること。

究極目的は破壊であって、役割の問題として須藤は破壊さえできればそれでいい。

なのだけれど、須藤はただのニヒリストか、と言えばそうじゃない。

ちゃんと理由と目的を以て破壊を行っている。

けれどなるたるの読者全員を悩ませたのはこの一言だと思う。


(12巻p.133)

この一言二言のせいでなるたるが超絶に難解な物語になってしまった。

結局、登場人物の発言はそれが嘘であると分かる場合を除いて、全て真であると判断しなければならなくて、そうである以上須藤には思想がなくなってしまう。

けれども、須藤はこのシーンに至るまでにあまりにも自身の思想を語ってしまっている。

この矛盾を解決しなければならない。

僕はひたすら考えたのだけれど、須藤には思想がある。

じゃああの一言は何なんだ、という事が問題で、これは結局「どんな人間が生き残るべきかと言う思想」は持っていないという意味になる。

その事について説明する。

須藤は優生論者なのだけれど、ラッセル曰く優性論には二種類存在する。(ラッセル『結婚論』優生学参照)

一つは積極的優性学。

どういう事かと言うと、優秀とされる遺伝子を持つもの同士をかけ合わせて優秀な個体を作り上げようとする発想の事。

分かりやすい例で言うと、『テラフォーマーズ』のジョセフ・ニュートン。



(橘賢一 貴家悠『テラフォーマーズ』10巻p.76,pp.71-72)


まぁ一般的な優生学って言ったらこっちになる。

けれど優生学にはもう一つあり方があって、それは消極的優生学。

これは積極的優生学とは真逆の発想で、優秀ではない遺伝子を駆逐して全体としての優秀さを底上げしようという発想になる。

優生学は歴史の事実として実際に行われていて、ヒトラーの政策の政策の中にそれがあった。

勿論両方の優生学が実行されたのだけれど、消極的優生学の方は同性愛者、精神障害者、ロマ(ジプシー)、ユダヤ人などが遺伝子的に劣った存在であると判断されて断種され、時には殺害された。

ちなみにユダヤ人虐殺はヒトラーが熱心なキリスト教徒だったからという話がある。(『神話・伝承事典』ユダヤ人参照)

確かにコロンブスの航海日誌を冒頭だけ読んだ時に、ポルトガル国王のユダヤ人撲滅を褒め称える賛辞から始まっていたから、ヒトラー云々というより、西洋人は伝統的にユダヤ人が嫌いなのだろう思う。

話を戻すと須藤は明らかに優性論者であって、特に消極的優生学を主軸とする思想を持っている。

と言うよりも、黒の子供の会が優生学的な思想を持つ人間によって構成されている。

小森はまぁ、肉体的に優れた存在が世界を構成するべきだと考えている。

さとみは世界全体と言うより、自分が優れているという事を示したい。

文吾の目的はさとみを手に入れることだけれど、最終的に須藤の行動に自分も従うのだから、優生学的な発想を持っていると言える。

そして首魁たる須藤は優性論者で間違いない。

彼の思想は様々なところで語られる。

黒の子供の会が始めて出て来たとき、アキラを釣りに誘った「人の命、魚の命」、元担任と話した「そして、虚言」、最後に彼が死ぬ瞬間。

なんだけれど、それぞれが何とも判然としない。

けれども、よくよく読んで考えれば全て一貫して優生学的な思想に基づいている。

その理解をけちょんけちょんにするのが、


(同上)

このコマで、これのせいで須藤に思想がない前提で考えなければならなくなってしまう。

けれども須藤は全てを通して優生学に則った発想をするので、このコマについて頭をひねらなければならない。

求められるのは物語中の須藤の発言が一貫しているものであるという事。

一貫していなければその人物、キャラクターを理解することは出来ない。

なので一貫していると仮定して、一貫させるためにはこのコマをその一貫性の俎上に置かなければならない。

つまりどういう理解が必要なのかと言うと、須藤は優生学を思想として持っているが、上の画像のような発言をしているという事。

ここで積極的優生学と消極的優生学の理解が役に立つ。

積極的優生学では「どのような個体が生き残り、遺伝子を伝えていくべきか」という思想が必要になる。

以前少し書いたけれど、優れているという事には定義が必要になる。

全てが優れている事なんてありえないわけであって、長距離走と短距離走で必要になる筋肉が違う事から分かるように、全面的に優れるという事は不可能であって、取捨選択が必要不可欠になる。

その「優れている」というものを定義するには思想が必要になる。

どのようにあるべきか、どれが優れているべきか、という判断が必要なわけであって、これがある意味思想という事が出来る。

し‐そう〔‐サウ〕【思想】[名](スル)
1 心に思い浮かべること。考えること。考え。「新しい―が浮かぶ」
2 人生や社会についての一つのまとまった考え・意見。特に、政治的、社会的な見解をいうことが多い。「反体制―を弾圧する」「末法(まっぽう)―」「危険―」
3 哲学で、考えることによって得られた、体系的にまとまっている意識の内容をいう。

ここでは2の意味として取るべきであって、理想と同義であると言える。

つまり、須藤は人間とはかくあるべきだ、という思想は持っていないという事。

一方で人間はこうであってはならないという思想なら持っている。

ここまで根拠が薄いと感じるかもしれないけれど、こう考えないと須藤の思考が成り立たない。

実際思想を持っているのに思想を持っていないと言いつつ、なおそれが両方とも真の命題であるには上のような理解しかありえない。

よって、須藤はどのような人間が生き残るかなんて興味ないという意味において思想がないという事をまず、須藤が破綻しない為に明らかにしておく。

そして確認にはなるのだけれど、須藤の目的は破壊を涅見子とシイナの為にすることにある。

なのだけれど、その破壊をする理由と言うものが存在していて、確かに破壊を二人に見せるだけでも成り立つのは成り立つのだけれど、それ以前に須藤の感情的な部分が理由と成っている。

須藤は今のうのうと生きている人々すべてが嫌い。

何故嫌いかは色々書かれている。


(7巻pp.25-31)

全部画像引用したらきりがないかもしれない。

まず「弑する」という事について解説すると、弑すると調べると、
しい・する【×弑する】
主君・父など目上の者を殺す。弑逆(しいぎゃく)する。
と出てくるからつまり、父親と主君が同一視されるものであるから、父親殺しはひいては為政者殺しに繋がるから強く否定されたと先生は言っている。

ここら辺はまさにラッセルの『結婚論』に詳しいけれど、どうでも良いから読まなくてもいい。

それで須藤の話を理解しなければならないのだけれど、一つの事柄を理解した上で読むと分かりやすい。

「よって今生きている人間が嫌い」ということ。

それを前提にすれば全て意味が通る。

つまりこのままだと(須藤にとって)薄汚い遺伝子を持った劣った個体が蔓延してしまうし、そうなったら人類そのものが滅びてしまうという事を理解しているのにも拘らず、昨日と同じ今日を続けて、楽を選び続けている人類が嫌いで仕方ない。


(同上。以下では同じ画像を使うときは特記せず。)

そのような楽を選び続けることは、その利便性による優位性は確かに存在するけれどいつかは破綻する。

須藤が挙げた諸物は人間が当座生きることに一切不要であって、そのような不要なものによって楽を選び続ける結果、資源を食いつくし破滅に至るという事は誰しもが気づいていて気づかない振りをしている。



その最たるものが石油資源であって、石油が尽きることなんて分かり切っているのにも拘らずそれをどうにかしようとしない。

そして石油がなくなったらただそれだけで人が死ぬ。

10億は死ぬだろうか。



このまま資源を無駄に消費し続ければいつかは有能な人を含めてすべての人類が死に絶え終ってしまうのだから、それを終わらせない方法を考えなければならない。

けれども今は有能な人だけに資源が配られるのではなく、資源を獲得する能力を本来的に持っていない無能な人間にもパンが配られている。

パンを得るのは優秀なものだけでいい。




その優越の判断は個人の能力によって評価されて、それに応じた量のものが与えられるべきだ。



それこそが平等な世界であるはずなのだけれど、今はそうではなく資源を浪費して破滅にただ無思考に向かっていて、自己改革と反省をまるで行っていない。

それを行っているなら、無能な人間にパンが配られるはずはない。

そして、



そんな人間に未来があると思いますか?

と言う話。

そんなんわかんねぇよ。

ここまでで気づくのは、具体的にどのような人間が生き残るべきか、例えば頭が良いとか運動能力に優れているとか、そういった議論はしておらず、そのような無反省な人々がただ必要ないという話をしているということ。

須藤にとってはそのような無反省な人々が生き残っていることが許せいないのであって、ではどんな人間が生き残るべきかと言う話はない。

言ってしまえばそのような状態にない人間であれば良いわけであって、劣ったものにパンを与えなければそれでいい。

更にそのようにパンを与えるものも許せないわけであって、パンを与えるものも滅ぼしたい。

その最たるものが、核の冬。

自分のパンしか考えない人間以外は全て滅ぶ世界。

実に利己的な世界であって、利己的な発想と言える。

これが正しいか正しくないかで言えば、正しくない。

どうしてかと言えば、それを正しいと判断できる人間が存在しないから。

政府は当然そのような選択は出来ないし、個人はそのような選択をするメリットがない。

正直、非常に合理的だと思うけれど、誰にとって合理的なのかが一切ないから合理的になりきれてない。

誰の快にも生存にも与えるものが一切ないから、誰にとっても不快で害悪になってしまい、不要な発想という事になる。

特に功利主義的発想だと、全体の幸福の量が問題になるから、このように全体の幸福が減るような提案は議論にすらなりはしない。

まぁ、そういう事を須藤は考えて実行したという話なのだけれど、もしかしたら地球と言う長いスパンでは賢い選択なのかもしれない。

とは言っても、


(11巻p.239)

地球は人間に興味はないのだけれど。

基本的に須藤はこの考えに則って行動している。

それを前提に須藤の事をなるたるの物語の時系列に沿って解説していく。



疲れてきた。

この時点で5000字だからとりあえず前編という事にしようかな…?

ということで、きょうはここまでで後編は明日あたりに。