まぁ、実際に検索してもらえば分かるのだけれど、Googleのアルゴリズムの問題であるようだ。
けれど、僕は実際のところ考察はしていない。
しているのはあくまで解説。
そこのところを分かってもらうために、今回は純度百パーセントの考察をしようと思う。
今、ちょっとロックとかルソーの社会契約説の勉強を状況に駆られてしているけれど、飽きた。
なので気分転換の為に、ヴァギナ・デンタータの記事を書くために神話の事典を広げて勉強するという倒錯した事態が起こっている。
何やってるんだろうと思うけれど、前々から書く予定だったのが前倒しになっているだけなのだからあまり気にしないことにする。
今回することは、ヴァギナ・デンタータの考察。
結局、僕は解説のつもりで書いているのだけれど、何処か考察として捉えられているようだ。
なので、考察とはこういうものの事を言うんですよ、という事を以下で書く。
ところで、この記事を書くためにミルチャ・エリアーデとかホワイトヘッドとか参照にしようと思ったけれど、そんなことが究極的に必要か?という疑問に答えられず、手元にあった、バーバラ・ウォーカーとかいう良く知らん人が書いた『神話・伝承事典』の記述を参考にすることにする。(なんか凄そうな名前を出して、説得力を上げるスタイル)
実際、本気でやろうと思えばやっぱり神話学の権威であるエリアーデを使うべきなんだろうけれど、彼の議論が僕の書こうとしている内容に直結するとは限らない。
以前にも少し言ったけれど、神話学なんてクソみたいな学問に過ぎない。
普通に考えて、酔っ払いが適当に考えた与太話が、後世に神話として残っている可能性が捨てきれない。
捨てきれない以上、本来的に議論すべき内容ではない。
大体、シャーマンそのものも、酒とか色々なもので冷静な思考状態を奪われた状態で神託を下している。
狂人と巫覡の差はなかったって議論はフーコーもしている。
そうであるとして、そんなものに何か深い意味があるか、という事を考えなければならない。
もっと分かりやすく話を換言すると、隣の酔っ払いのおっさんがいきなり始めたほら話を信じるのかどうか、という問題になる。
史記を読んでいても、西洋のキリスト教の一連の影響の話を読んでいても、プラトンの例えばソクラテスの逸話を読んでいても、そのような超越的(神的)なものは、議論を許さず、ただ信じなければならないものであるとしか言いようがない。
その前提で、酔っぱらいの巫女なり覡が妄言を吐き出したとして、当時の人々はそれが真実であるかどうかという吟味はしてはいけない。
ただ、その言葉を信じて、その言葉が正しいという前提で全てを進めなければならない。
ここでその神官がある物語を話したとする。
その物語は、その民族の歴史、そしてその始まりを示唆しているとする。
当然、その信託を受けた人々はそれを信じなければならない。
これこそが神話というものの一つのモデルケースといえる。
結局、その発生は全て記録されておらず、どのようにして生まれたかは想像するしかない。
それが故に、その何とも言えない神秘性を論理化する作業を幾人もの学者が行っている。
でも、考えてもらいたいのだが、それと例えばアンデルセンが残した童話と何がどのように違うのだろうか。
結局、なんだかよく分からないストーリーが展開される一連の空想に過ぎない。
ここら辺はナラーティブ(物語の哲学)である程度解消できるかもしれないけれど、結局のところ、そこに人類の根底にある、何か神秘的な源泉なんてものは無い。
だから、神話学は根本的に無意味だと考えている。
けれど、なるたるにおいて神話学はかなり重要ではある。
特にその竜の子と竜の名前は神話の神々から取られている。
神話の読解に意味がないとして、しかしその竜の子の名前にも意味がないのだろうか。
神話の作為はもはや読み取れない。
原初存在していたのかもしれないが、今残っている材料だけではくみ取れない。
けれど、なるたるはどうだろう。
その作為は本当に汲みだせないものなのだろうか。
何故、のり夫は自身の竜の子にヴァギナ・デンタータという名前を付けたのだろうか。
ここは一旦、この事は考察できるものとして、考察をすることにする。
まず、のり夫の竜骸の名前はヴァギナ・デンタータという。
(四巻p.202)
このヴァギナ・デンタータを簡単に調べてみると、なんだか男性の去勢の恐怖という意味合いが読み取れる。
でも少しここが妙だったりする。
のり夫は、どう考えても去勢に恐怖を感じない。
むしろ、そのような男性的なシンボルに対して嫌悪感を抱いている可能性が高い。
具体的なページとかはわざわざ挙げないけれど、のり夫は性同一性障害である可能性が高い。
なにせ、鶴丸の子供が欲しいとまで考えている。(10巻pp.198-199)
そうであるとしたならば、ヴァギナ・デンタータという名前が表すような男根喪失の恐怖は、そもそものり夫には存在しない。
けれども、のり夫の竜骸の名前はヴァギナ・デンタータ。
これについて考察してみようと思う。
僕はこれについて二つの可能性を考えた。
一つに、鶴丸へのあてつけ。
二つに、竜骸との契約。
一つ一つ見ていきたいと思う。
まず、普通に調べるとヴァギナ・デンタータという語は男根喪失、去勢への恐怖という意味合いが前面に出される。
これはフロイトがそう述べているからであって、ただのフロイトの一意見に過ぎなかったりする。
でも、鬼頭先生は高い確率でフロイトの思想を何らか触れているという事は読み取れる。
僕自身、精神分析はおざなりにしかやっていないので何ともだけれど、アキラの「飛ぶ」というキーワードはそうであると判断して問題はないと思う。
まだその解説の作業はしていないけれど、アキラの行動は全てセックスという目的に基づいている。
そして、アキラは何度も「落ちる夢」を見ている。
フロイトの文脈だと、落ちる夢は性への屈服というのだから、アキラの葛藤を鑑みればフロイトの言説が作中に取り入れられているということは推測できる。
第一、アキラの最期の言葉が「飛べなかったなぁ」であって、フロイトは飛ぶ夢をセックスと同一視してたのだから、少なくともアキラについてはフロイトの思想が見え隠れする。
その前提で、鬼頭先生がフロイトをなるたるに用いたという前提でヴァギナ・デンタータを理解しようとすると、しっくりいかない。
のり夫は性同一性障害者であるので、彼に去勢の恐怖はない。
フロイトのオイディプス・コンプレックスはあくまでそういう「お話」に過ぎず、ある種の典型らしいけれど、とにかくのり夫にその恐怖がない以上、恐怖としてのヴァギナ・デンタータはのり夫にとって意味をなさない。
けれど、のり夫の竜骸の名は「歯のある膣」だ。
これを考えなければならない。
ここで少し見方を変えてみる。
のり夫の目的について。
のり夫は鶴丸に愛されたい。
愛されたくて子供が欲しいのだけれど、そもそも子どもなんてのり夫は孕めないし、鶴丸ものり夫について興味がない。
(四巻p.200)
そして、鶴丸は子供を百人作るとそこら中で女をひっかけて、孕ませている。
当然、のり夫はこの事が面白くない。
面白くないのもそうだけれど、のり夫の心情を理解しようとすればするだけ、胸が苦しくなる。
どうしても届かない愛。
どうしても振り向いてくれない相手。
そんな相手に対して、何をすることが出来るか。
のり夫が鶴丸に悪態ばかりついているのは、前回の記事で書いたけれど、これはあてつけと考えるのが最も妥当だと思う。
そして、竜骸の名付けにもそれが表れている。
ヴァギナ・デンタータは相手の陰茎を噛み千切る存在。
その名前を自身の竜骸につけて、のり夫は鶴丸に「いつかお前の陰茎も食いちぎられるぞ」というメッセージを送っている。
と考察できる。
だから、鶴丸がでんたくんをオグルと呼ぶと、わざわざ訂正する。
というか、素直になって鶴丸に迫ったところで鶴丸は興味を示さないだろうし、子供は産めない。
だから、素直にならない。
(七巻pp.46-47)
そりゃあ、鶴丸の子供なんてのり夫が一番欲しいものなんだから、目を逸らすしかない。
のり夫がどう思ったところで、鶴丸はこのような子供を作り続ける。
でも、そんなことをしていたらいつ鶴丸の身に何か起こるか分かったものじゃない。
だから、のり夫は警告する。
自身の竜骸に奇特な名前を付けて。
というのが一つの考察。
…
何だけれど、これで十分じゃない?
結構説得力ない?
もう、一時間書いているし、もう一つの方要らなくない?
でも、もう一つの方を書かなければ、神話事典ひも解いた意味ないんだよなぁ。
なので、一応もう一つも考察します。
もう一つの可能性は、竜骸との取引のメタファーの可能性。
つまりどういう事かというと、どうもヴァギナ・デンタータというのはフロイトの妄想上でしか去勢の恐怖を司らないらしい。
これは論文じゃないから一々索引とかつけないけど、以下は全部「バーバラ・ウォーカー『神話・伝承事典』山下主一郎他訳 1988年 大修館書店」の「ヴァギナ・デンタータ」の項を参照してます。
結局、ヴァギナ・デンタータのような神話は世界各地にあって、それについての研究は行われている。
それによるとどうも、ヴァギナ・デンタータは「食べる」というイメージの事らしい。
どういう事かというと、女性は男性から発される精液を陰部で食べて、妊娠する。
そのようなイメージが古代にはあった。
所詮受精だとかいう事は医学が発達しない限り知る由もないのだから、もっと単純なイメージが先行する。
セックスをすると男性は非常に疲れて、精液が発射される。
その向う先は女性なのだから、男性から見たら女性に何かエネルギーのようなものと精液を食べられているようにすら思える。
今だから「思える」ような問題だけれども、当時としてはそう「信じた」と言っていい。
そのような発想は各地に残っている。
そもそも、女性の陰部は陰唇を伴うのだから、唇という言葉を用いている以上、口を想定している。
当然、口には普通ならば歯がある。
それだけの話。
女性は男性を食べると考えられていたけれど、実際に食べるのは下の口であるという話。
実際、スラングで「下の口」という語は現代日本でも見られる。
だから、その口としてのイメージがヴァギナ・デンタータという怪物を作った。
大体、そのヴァギナ・デンタータという言葉を良く見ればわかるように、ラテン語起源であって、学術用語であると判断でき、そのような怪物は存在しない。
どういう事かというと、ラテン語を用いたローマの怪物であったとしたら、もっと固有名詞的な名前になるはずだし、そうではなくラテン語を用いたキリスト教会の怪物だとしたら、キリスト教会はそれを悪魔と呼ぶはずなので、悪魔の一種であるはず。
けれどもそうなっておらず、一般的な言葉の組み合わせだという事は後世の学者が便宜上付けた名前であると推定できる。
長くラテン語は学術用語だったので、例えばデカルトの方法序説もラテン語で書いてある。
その一連の伝統の中で、神話について研究した誰かが神話に見られるこの典型的なエピソードにヴァギナ・デンタータという名前を付けたのだろう。
いや、調べりゃわかるのだろうけれどね。
ここで、のり夫の話に戻る。
このように食べる存在だとしたならば、のり夫はどうしてヴァギナ・デンタータと名付けたのだろうか。
ヴァギナ・デンタータが語られるときは多く、のり夫の性のアンバランスさが問題になってきた。
けれども、このように男性を食べるものの象徴の呼称だったとした場合、どのようにすればのり夫と関連付けられるだろうか。
のり夫は男性を飲み込んでしまったりはしない。
ここで、のり夫と竜骸の関係について、いや、保持者と竜の関係について考えたい。
といっても、以前書いたので詳しくは書かない。
結局、竜骸には契約の対価として魂を与えなければならない。
魂は竜骸に取り込まれ、保持者と竜骸は竜となって一つになる。
そうして星の記憶として、地球の保持者が使うその日まで浮遊し続けることになる。
この構造にこそ、ヴァギナ・デンタータの名前の手掛かりがありそうだ。
つまり、ヴァギナ・デンタータは去勢の恐怖の事を物語っているのではない。
契約の事を語っている。
つまり、セックスであれば快感と引き換えに男性は強い虚脱感と喪失感を味わう。
古代人はこれを喪失感とは考えずに実際に奪われたと考えたようだ。
そして、竜骸は何でも作り出せる力と引き換えに、魂の構造を保持者から奪う。
ヴァギナ・デンタータとはこの大きな利益に対する巨大な対価のメタファーであるとは考えられないだろうか。
即ち、ヴァギナ・デンタータとは生命を食べる。
男性であったら精力を、保持者であったら魂を。
どちらも何かを作り出す源であるのだから、それを奪うものに共通の名前があっても何もおかしくない。
以上が僕のヴァギナ・デンタータに対する考察になる。
Ω<な、なんだってー!
て感じだったけれど。
ここでMMRの画像を持ってこようと思ったけれど、そもそも読んだことないからどこに「な、なんだってー」があるか分からないし、編集も大変だからやめた。
つまり、考察ってこんな感じなんですよ。
本編からどうやっても導き出せない内容を、どうにかこうにか自分の脳みそで作り上げる作業のこと。
そうだと僕は考えています。
辞書的な意味だと当然違うのだけれど、僕は普段考察をしてるつもりはないわけです。
一方で、上の内容は解説とは呼べない。
僕が書いてきた殆ど物は解説だと呼べるけれど、同時に考察とも呼べるわけです。
けれど、上の内容は考察としか呼べない。
だから、僕は限定的に上の内容のようなもの考察と呼んでいます。
僕が勝手にそうしてるだけであって、正しい意味は知りません。
僕は一応、結構もっともらしいことが書けたと考えているけれど、そのような内容は本編の記述からではどうやっても導き出せない。
フロイトについて言ってみても、鬼頭先生がどれ程に意識したかなんか分かりはしない。
意識したとしたら、ヴァギナ・デンタータはフロイト的な意味になる。
そうだとすると、後半の内容は全て妄想という悲しい結果に終わる。
大切なのは実際にどのように記述されているかであって、その範中にないことについての議論は本質的に意味がない。
これは僕の環境がそう思わせているのかもしれないけれど、それを加味してもそのような議論にあまり意味を見いだせない。
だとしたら、これも考察の範疇なのかもしれない。
まぁ、そんなところです。
どっちの方がもっともらしいですかね、ヴァギナ・デンタータの考察。
ではまたいつか。
勉強しなきゃなぁ…