海軍のトリビア | 太平洋戦争史と心霊世界

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海軍を中心とした15年戦争史、自衛隊、霊界通信『シルバーバーチの霊訓』、
自身の病気(炎症性乳がん)について書いています。


 海軍の雑学的エピソードを集めました。


連合艦隊5 

 

 

海軍では上官とは最低でも1メートル以上離れなければならなかった。

 

 

海軍では焼夷弾については「消火などしていたら命はない、火を消そうと思うな」と防空演習で教えられていた。木造の建物の横の防空壕に入ると、火災になった時に酸欠で死んでしまうからである。

 

 

一般に軍隊から出て民間人に戻ることを「復員」と言ったが、海軍では「解員」と呼ばれていた。

 

 

海軍では未成年でも酒は禁止されていなかった。そのため「酒保開け」(酒盛り)では下士官に勧められ、十代でも日本酒を二合ほども飲まされたりした。

 

 

海軍下士官には酒に強い者が多く、スープ用の大きい食器に酒をなみなみと注いで飲んでいた。(未成年から飲んでいれば強くもなるでしょう)

 

 

戦艦大和は食事が良かったうえ、冷房完備、音楽会なども開かれ他の艦にうらやましがられた。その恵まれた生活環境は当時、満州国にあった超一流のホテル名になぞらえて「大和ホテル」、または「大和御殿」と皮肉られた。



大和ホテル 

大連ヤマトホテル。南満州鉄道株式会社が経営していた。

 


 

戦艦大和は戦時中、軍の最高機密だったため、大和の艦内を撮影した写真はきわめて少ない。

 

 

「軍艦が沈没するときにはだれが御真影を担いで逃げるか決まっていた。沈没のとき、彼は背中に御真影をたすきがけにくくりつけ、将兵よりも早く脱出した。兵隊の命よりも天皇と皇后の写真が優先されたのだ。そのために泳ぐことができずに自分の命を落とした下士官もいた」

 

 

海軍では艦艇が沈没する時にも「逃げろ」という命令はなかった。その際は「総員、最上甲板へ」と言われた。つまり持ち場を離れろということであり、これが事実上の「逃げろ」だった。


映画「ミッドウェー」 

 

 

海軍では事務処理が大変厳格で一切のミスも許されなかった。従って庶務、経理、人事を担当している主計調長の責任は極めて重く、気苦労が多かった。

 

 

転勤になると日当、宿泊料、赴任手当などが付き、さらに転勤していく艦が他の鎮守府の管轄であった場合、派遣手当ももらえたため、転勤は海軍将兵にとって楽しみの一つだった。

 

 

海軍では麻雀は禁止されていたが、士官室、ガンルームでは当直の余暇などを利用してトランプ、囲碁、将棋がさかんに行われていた。

 

 

陸軍に徴兵権はあったが海軍にはなかった。陸軍に徴兵された者の中から優秀な者が海軍に回されていた。しかし戦争末期の昭和20年になると、甲種、乙種どころか丙種(身体上きわめて欠陥が多い者)も入隊してきた。

 

 

『戦艦大和最後の乗組員の証言』、八杉康夫著 粟野仁雄構成、ワック、2005

『戦艦大和』-生還者たちの証言から、栗原俊雄、岩波書店、2007

『大和よ武蔵よ』-吉田満と渡辺清、勢古浩爾、洋泉社、2009

『キスカ』-日本海軍の栄光、市川浩之助、コンパニオン出版、1983