樋口季一郎 陸軍中将(5)【終】-占守島(しゅむしゅとう)の戦い | 太平洋戦争史と心霊世界

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 樋口季一郎が強いられた3度目の決断、それは終戦直後の出来事でした。昭和20815日に日本は降伏し、千島列島の最北端にある占守島(しゅむしゅとう)でも日本軍の武装解除が始まっていました。



占守島  千島列島の占守島。ソ連軍は樺太を経て占守島に侵攻してきた。


 

 ところが終戦3日後の818日、日ソ中立条約を一方的に破ってソ連軍が、カムチャッカ半島から占守島へ侵攻し、奇襲上陸された竹田浜は突如戦場と化しました。

 

「なにっ、ソ連軍が揚がったと・・・」

 

 樋口はソ連の上陸を聞いて沈黙したまま、身じろぎもしませんでした。日頃はてきぱきと物事に対処する司令官でしたが、今度ばかりはさすがに決断をつけかねたのです。



樋口季一郎 

「アッツ玉砕」の絵を見る樋口中将(中央・左)と画家・藤田嗣治(中央・右)



 

 しかし陸軍きってのロシア通であり、かつて諜報員であった樋口にとって、ソ連の侵攻は予想されたものでした。

 

「アメリカと戦っている間は、ソ連も千島には手をださんだろう。しかし、ソ連が必ずやってくることは、私がかねて主張していたことである。それは、私のロシア侵略史による信念である。

 

私はいままで、対米第一、対ソ第二という方針で作戦準備し、各師団長にもこの思想を鼓吹してきたが、樺太に関するかぎり、対ソ第一は当然である」

 

 彼の憶測は、ソ連の対日参戦により現実となりました。大本営からは終戦処理に対して、

 

「一切の戦闘行為を停止す。ただし、やむをえざる自衛行為を妨げず。自衛目的の戦闘の最終日時は18日午後4時とする」

 

 と指示されていました。「自衛のための戦闘」を行うべきか、敵に蹂躙されつつも大本営の指示に従うか。逡巡する樋口司令官の脳裏には、アッツ島で山崎隊長に「死んでくれ」と命令した往時の断腸の思いが一瞬よぎりました。一兵たりとも死なせるな・・・。

 

 しかし次の瞬間、樋口は決意を固め命令を下しました。

 

断乎、反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」



北部司令官官邸跡 

北部軍司令官官邸跡


 

 ソ連の本土上陸を水際で食い止めなければ、敵は北海道にまで迫ってくるだろう。そうなれば、沖縄戦の二の舞は避けられない。

 

 血みどろの戦いが開始されました。池田末男大佐率いる戦車第十一連隊、通称「士魂部隊」をはじめとする、占守島の守備隊は歴戦の精鋭で、ソ連軍を次々と撃破していきました。

 

タカをくくっていたソ連軍は、戦車連隊の活躍と目覚ましい戦闘により大損害を被りました。竹田浜には戦死者の遺体が累々と横たわり、目を覆うような光景でした。

 

戦いは予定されていた「18日午後4時停戦」時に停戦交渉に持ち込んだものの、結局決裂し、最終的な停戦が成立したのは821日でした。

 日本軍は戦闘で優勢であっても、政府が敗戦を受諾した以上、停戦して武装解除せねばならなかったのです。



旧日本軍戦車 

占守島の旧日本軍戦車


 

こうして占守島の戦いは終わりました。ソ連側は大きな犠牲を出し、この戦いでの日本側の死傷者は6001,000名、ソ連軍の死傷者は1,5004,000名にのぼりました。この戦闘でソ連は大打撃をくらったのです。

 

占守島の戦闘が負け戦であったならば、ソ連軍は北海道にまで侵攻し、占領していたかもしれません。それを示唆するように北方4島はソ連に占領され、現在も返還がなされないままとなっています。

 

その意味で、占守島の戦いは日本軍の勇猛さをソ連に印象付け、武力による占領をより慎重に、躊躇させた効果がありました。しかし一方で、ソ連軍に投降した日本兵はシベリアへ連行され、抑留によって辛酸を舐めさせられたのです。

 

占守島での戦いでは、樋口自身の決断で戦闘が行われ、部下が死んでいきました。彼はこの責任の所在に生涯強く苛まれました。

 

 樋口中将は数奇な運命と共に、至高なる精神を持った名将でありました。最後に彼の部下であった、渡辺行夫元大佐の言葉をご紹介することで終わります。

 

「深い人間味、水のごとく澄みきった沈着さ、廉直にして決断力に富む叡智の人。樋口中将こそ『大将軍』というべきではないか――私はいまもそう信じている」

 


 

・ウィキペディア『樋口季一郎』

・『流氷の海』-ある軍司令官の決断、相良俊輔、光人社、1988

・『指揮官の決断』-満州とアッツの将軍 樋口季一郎、早坂隆、文藝春秋、2010