なぜ日本海軍では艦長が沈没艦と共に沈むのか 【前編】 | 太平洋戦争史と心霊世界

太平洋戦争史と心霊世界

海軍を中心とした15年戦争史、自衛隊、霊界通信『シルバーバーチの霊訓』、
自身の病気(炎症性乳がん)について書いています。


艦と共に沈む艦長 


 太平洋戦争時代の日本海軍の軍艦の艦長は、戦いに敗れた際には艦と共に沈んで責任をとるべきという不文律があったとされています。ではなぜこのような慣習ができあがってしまったのでしょうか。

 

 軍艦と共に艦長が運命を共にした例には、まずミッドウェー海戦があります。

 ミッドウェーでは日本海軍の
4空母が沈没し、そのうち「蒼龍」の柳本柳作艦長、「飛龍」の山口多聞司令官、加来止男艦長3人が退艦を拒否して艦内に留まりました。

 「
加賀」の岡田次作艦長
は、戦死により艦と共に沈んでいきました。

 

 空母「赤城」の青木泰二郎艦長は有賀司令官らに説得されて退艦し、自らの意に反し生き残ってしまいました。その結果、戦艦・空母クラスの艦長として、艦と共に運命を共にしなかった最初の艦長という不名誉を与えられることになりました。

 

 また昭和2047日、戦艦大和が沖縄特攻へ向かう途中の海戦で、司令官の伊藤整一中将有賀幸作艦長が何度も止められたにもかかわらず、退艦を拒否して大和に残り、そのまま海へと沈みました。

 

 海戦に敗北した際に責任を取って艦長が海に沈むというこの慣習は、イギリスの戦艦・プリンス・オブ・ウェールズに座乗していたトーマス・フィリップス提督リーチ艦長に習って始められたものと言われています。



フィリップ提督 

トーマス・フィリップス提督Thomas Spencer Vaughan Phillips)、1888-1941


  昭和161210日、日米開戦の端緒となったマレー沖海戦にて、プリンス・オブ・ウェールズは日本海軍の航空機の攻撃を受け海底へ沈みました。

 

この時、フィリップス提督は退艦を勧められたにもかかわらず、「ノーサンキュウ」と拒否し、「諸君、元気で。神の加護を・・・」と呼びかけてから、乗組員全員が海中に飛び込むのを見とどけると、リーチ艦長と共に海の中に降りて行った、と伝えられています。



プリンスオブウェールズ号  英海軍・戦艦プリンス・オブ・ウェールズ
 

 

 それを見習って、「天皇の艦を預かる」軍艦の指揮官は艦と運命を共にすることが不文律になったとされます。

 

 従って軍艦の指揮官が艦と運命を共にするのは日本海軍の命令でも伝統でもなく、日本海軍のモデルとなった、英国海軍を見習ったものであると主張されていました。

 

 しかしこの見方に対し疑問視する声もあります。『戦艦大和の運命』の著者、イギリス人のラッセル・スパーはこう述べています。

 

 「帝国海軍では艦長は艦と共に沈むのが伝統になっている。この伝統を弁護する者は英国のやり方を踏襲しているのだと主張した。

 

だとすれば日本人はまちがっている。英国海軍の伝統は、艦長は最後に離艦することを求めているにすぎない。

 

むしろ日本人は、彼らの昔からの伝統に従っていると言った方がいいだろう。艦長は艦を失った罪滅ぼしをしなければならない、という気持ちになるのだ。

 

この誤った考えによって面目は保たれたかも知れないが、太平洋戦争を通じて多数の貴重な人命が無駄に失われたのである」。

 

 よってプリンス・オブ・ウェールズのフィリップス提督らは、本当に生還しないことを決意し、自決行為として海に飛び込んだのかどうか、その真相に疑問が持たれます。

 スパーの述べるとおり、艦長らは英国海軍の慣習として単に最後まで艦に残ったのであって、死ぬために艦に留まったのではないかもしれません。注1)

 

(注1)実際に英語での情報を求めても、「フィリップス提督らは艦と共に沈んだ」、又は「艦長らは溺れた」という記述が存在するだけで、「自ら艦に留まって死を望んだ」という自殺的描写は見られなかった。

 キリスト教文化圏では、どんな自殺でも名誉な事とみなす土壌がないため、たとえ艦長が自決的行為を取ったとしても、社会的に称賛される可能性は極めて薄い。