海軍予備士官と兵学校卒士官の対立 【前編】 | 太平洋戦争史と心霊世界

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第三種軍装の並木 



  海軍では海軍予備員として、学歴が旧制高校(現在の大学前期課程)、旧制専門学校(現在の4年制大学に相当)以上に相当する学生を海軍予備学生と称して採用していました。彼らは卒業後、一定の訓練を経て、海軍予備少尉となります。

 

 太平洋戦争の後半には戦争の拡大に伴い、海軍予備士官が活躍しましたが、同じ兵学校卒の本家士官とはカラーの違いから対立することも多かったようです。

 

 まず学歴ですが、海軍兵学校は現在でいう短大卒に相当します。しかし当時の兵学校と言えば、東大をもしのぐ超難関校で入学する者は大変なエリートでした。

 

 対して大学は今でこそ2人に1人が進学するような状態ですが、旧制大学の進学率は現在の1%といわれ、当時としてはやはり選ばれた人間でした。そんな具合で両者とも何かにつけプライドを賭けた確執が持たれたのかもしれません。

 

 戦争末期は大量の予備士官が編入され、昭和204月、戦艦大和の艦上でもそんな話が残されています。

 

 戦艦大和に乗艦していた吉田満少尉は東京大学法学部からの学徒出陣でした。ある時、艦内の通路で、彼に欠礼したまま走り去ろうとする少年兵を見つけました。少年兵は来たばかりの通信兵でまだ慣れていないようです。


吉田満少尉
海軍予備士官だった当時の吉田満少尉

 

 艦内の不文律では通常、上官への欠礼は鉄拳5発に相当する不埒な行為とされていました。しかし吉田は少年兵に口頭で注意を促し、改めて敬礼をさせ直させただけで解放しました。

 

 しかしその一部始終を兵学校出の大尉が目撃していました。大尉はその直後、吉田少尉に近づくと左頬に鉄拳を見舞いました。吉田の対応は生ぬるい、ということです。しかしそこでちょっとした対立が生じました。

 

大尉「貴様はどこにいるんだ、いま娑婆(しゃば)(注1)にいるのかッ!?」

 

吉田少尉「軍艦です」

 

大尉「戦場では、どんなにものの分かった士官でも役に立たん。強くなくちゃいかんのだ」

 

吉田少尉「私はそうは思いません」

 

注1)  海軍では海軍の外の世間一般を「娑婆(しゃば)」と呼んでいた。

  吉田は青ざめた顔でそう返し、じっと大尉をにらみました。兵学校では、年次が違えばこんな口答えは許されません。

  兵学校の雰囲気はいわゆる超体育会系で、先輩への反抗はとんでもない事なのです。しかし東大出の吉田には兵学校ルールも通用しませんでした。

 

 兵学校出身者は命を捧げることに疑念はなく、部下の誤りを鉄拳で制裁することも辞さない世界です。しかし東大や早稲田出身の予備士官は、議論になると、意味もなく死ぬのは納得できないと主張しました。

 

 このように、兵学校出と旧制大学・旧制高校卒の士官では雰囲気や習慣・気風が全く違っていました。