部屋に行くもドアは開かず返事もなくホテルの方に部屋を開けてもらった先には
うずくまり、うめいている従兄弟がいました。
痛みで吐いてもいました。
「救急車呼ぶよ!」と言ったのですが
「大丈夫、あと少ししたら薬飲むから、カバンから薬とお水・・」と言われました。
従兄弟は学会の時に
痛みが出る事がない様に、
その時間に合わせて薬を飲もうと思っていた様。
そして、この時にはその前に飲んだ薬が切れてしまったらしくて。。
その後、そばにいて本人の言う時間に合わせて薬を渡しました。
その日に無事に学会も終わり、
帰路に着く際に
「叔母には今回のこと言わないでほしい」と。
叔母を本当に大切にしていた従兄弟。
その後、
会う時にはこの様な事はなく
歩き方の不自然さなどはあったかもですが
笑顔の印象しかありません。
そして
その従兄弟は日本で生物学的製剤の治験の始まる前の年に亡くなりました。。
症状が出てから17年。強直性脊椎炎と診断されてから13年でした。
従兄弟の京都の主治医の先生には
「こんな痛みが続く状態でうつ病にならないなんて凄いよ」
と、従兄弟は言われていたと
後に叔母に聞きましたが・・
亡くなる数年前には
「うつ病になっている」と
叔母は私の母に伝えていました。
そして従兄弟の家には
沢山のステロイド薬と「ステロイド薬の副作用」の事が書かれた多くの論文などが残されていたとも聞きました。
副作用の事を調べ、最低限の薬しか取らなかったのか??
叔母は
「もう本当に限界だったんだと思う、ずっとずっとだったから」と、今会っても言っています。。
「強直性脊椎炎」
初めてこの病名を聞いてから30年以上。
「え?わたしも?」
そんな風に診断を受けた時に思いました。
従兄弟が亡くなったその後、
生物学的製剤が次々と
承認されていきました。
昨日読んだ
「患者さんたちの声」という物には
従兄弟と同じ頃に診断を受けた方が
「治験が始まった事が病気となってからの
ターニングポイントになった」と
書かれていました。
「あと1年早く治験が始まっていたら・・」
「あと1年、頑張れたなら・・」
そう思うと残念な気持ちが
今でも強く湧き上がって来ます。
今の私は・・
「こんな感じなんだからちゃんと病気を自覚しないと」と、行くたびにレントゲン写真を見せられて主治医に言われてます。
痛い時は痛い。
薬を飲んで痛みが治る時もある。
薬を飲んでも注射をしても
痛みが取れず数ヶ月苦しむ時もある。
調子が良ければ普通に動き回る。
(↑これに「加減して」と注意がはいる(笑))
「見えない未来」を想像で不安に思う事なく、
「今」に不快があれば対処をし
意識が病にのみ向かう事がなく
過ごすようになっています。
今はそんな日々です。
私は病気の事に詳しい訳でもなく、
薬に詳しい訳でもないので
特にこれから皆さんの参考になる事も
書くことはないと思います。
ただ 今回、
病院の転院をしなければならなくなっている今、
ちょこっと思う事があるので、
また次にでも書こうと思ったら
書きたいと思います