「菅降ろし」に大義と覚悟を。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 








【土・日曜日に書く】論説委員・皿木喜久




◆執念の吉田首相降ろし

 通算7年余りにわたって首相をつとめた吉田茂が退陣したのは昭和29年12月7日のことである。

 この日、民主党(今の民主党とは別)、左派、右派両社会党の野党3会派が吉田内閣不信任案の提出を構えていた。前月の11月、自由党を離党した鳩山一郎を総裁とする民主党が結成された。自由党は少数与党に陥っており、不信任案の可決は確実だった。

 しかし吉田はなお、解散・総選挙による権力維持をもくろみ、側近の池田勇人幹事長や佐藤栄作らはこれを支持した。これに対し同じ自由党でも次期総裁に決まっていた副総理、緒方竹虎らは解散に反対、総辞職論を唱えた。

 吉田は外相時代から愛用していた目黒の公邸(現東京都庭園美術館)に陣取り、閣僚や党幹部を説得し、閣議で解散を強行しようとした。だが最後に緒方が「解散するなら議員を辞めて田舎に引っ込む」と宣言したため、吉田も政権を放棄せざるを得なかった。数日後、左右社会党の支持を得た民主党の鳩山内閣が発足する。

 「吉田降ろし」の中心となっていたのは政界一の策士といわれ、「大ダヌキ」の異名もとった民主党総務会長の三木武吉だった。昭和27年、公職追放から復活を果たした後すぐ、同じ復活組の鳩山をかつぎ「民主化同盟」を結成、反吉田の旗をあげた。

 ◆保守合同で憲法改正を

 なぜ「吉田降ろし」なのか。三木は29年2月の衆院予算委で質問に立ち、こう述べている。

 「保守勢力を結集し清新溌剌(はつらつ)たる意気で国政の運営をするには、吉田総理大臣というものの存在が一番のじゃまになっている」

 三木にとっては、当時自由党のほか改進党などに分かれていた保守勢力を統一することが念願だった。戦後の占領政策を改め、憲法を改正するのに必要な3分の2の勢力を確保するためには保守合同しかないと考えていたからだ。

 その保守合同にさいし、吉田が「じゃま」である理由は2点あった。ひとつはその政治姿勢だった。27年の独立回復後も、ダレス米国務長官らの要請にもかかわらず、憲法改正による再軍備をかたくなに拒んでいた。それでは保守合同の意味がない。

 もうひとつは多分に感情的な反発だった。鳩山の追放で政権を預かったはずの吉田だったが、しだいに権力志向を強め、池田、佐藤ら官僚出身の若手を側近として使い「ワンマン」と言われるまでになった。復活組の党人政治家らはこれが我慢できず、とても同じ党ではやれなかった。

 三木は28年2月にも吉田の「バカヤロー」発言を機に、与党の一部を巻き込み不信任案可決に成功している。だが吉田は、解散により延命に成功した。その後、こんどは復活組の実力者、岸信介を自由党から離党させるなどで、ようやく退陣に追い込んだのだ。

 吉田退陣により1年後の30年11月には自由民主党が誕生、保守合同が実現する。自民党も結局は3分の2の壁を破ることはできず、三木らの念願だった憲法改正はいまだ実現していないが、長期にわたる保守安定政権がこのときから始まったことは間違いない。

 ◆首相退陣させる難しさ

 その吉田と菅直人首相を比べたら吉田に対しあまりに失礼だろう。しかし、現代の「菅降ろし」と半世紀以上前の「吉田降ろし」は似ていなくもなくみえる。

 自民党の谷垣禎一総裁は、不信任案を出す前、今月1日の党首討論でこう述べた。

 「あなたが辞めれば、党派を超えて新しい日本のために団結する道はできる」

 一見、三木発言を彷彿(ほうふつ)させる。だが「党派を超え団結」した後、何をなすかは語っていない。大震災対策なのか、それとも憲法改正や外交・安保など日本の政治の根底まで変えようというのか。保守合同のときのような「大義」が明らかでない。震災対策にしても菅政権と何が根本的に違うか、示されなかった。

 与党民主党にいたっては「この政権で厚遇されていない」といった感情的レベルを出ていない。

 もうひとつ、時の権力者を退陣に追い込む「覚悟」も希薄にみえる。当選11回を数えながら閣僚にはいっさいつかず、吉田政権打倒と保守合同にかけた三木武吉や、差し違え覚悟で吉田に引導を渡した緒方竹虎がいないのだ。ちなみに緒方は自民党結成から2カ月後の31年1月、三木は同年7月、ともに全ての力を使い果たしたかのように、世を去っている。

 各種の世論調査では多数の国民が菅首相の早期の退陣を望んでいる。だがふたつの例を見てもわかるように、現職の首相を権力の座から降ろすことは容易ではない。そこには大義と覚悟が必要なのである。(さらき よしひさ)