朝鮮に渡った耕筰の「幻の歌」 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







【歴史に消えた唱歌】(10)




「明、小生も満四十と相成り候。早、不惑に至るも尚、惑(まどい)多く、いつ解脱(げだつ)致し得るものにや。病床に在りては美女に解脱を頼むことも出来申さず、徒(いたづら)に青息吐息の態(てい)。御笑い下され」

 1926(大正15)年6月、作曲家の山田耕筰(1886~1965年)が40歳の誕生日の前日に、当時の三木楽器社長・4代目三木佐助(1852~1926年)に宛てた手紙が大阪市の同社に残されている。

 度重なる女性スキャンダルで世間を騒がせ、自ら設立した日本交響楽協会の運営などで経済的にも苦境に立たされていた耕筰は、過労が原因で約2カ月も寝込んでしまう。耕筰のよき理解者であり、支援者でもあった三木への手紙は決まって、借金の申し込みであった。

 この手紙の中で耕筰は、1923(大正12)年に同社(大阪開成館)から出版した「小学生の歌」(1~4巻)の修正について触れている。「『小学生の歌』病中を幸い、加筆訂正。(略)是(これ)ならば、どこへ出しても恥ずかしくはあるまいと愚考致し居り候」というくだりだ。

 「小学生の歌」については、この連載1回目で少しだけ書いた。耕筰の関係者ですら詳しく知らない『五月雨(さみだれ)』『冬の朝』『水車』『けむり』『郵便函(ばこ)』の5つの歌(すべて耕筰作曲、三木露風作詞)が収録されており、後に、日本統治下の朝鮮・京城師範学校音楽教育研究会編纂(へんさん)・発行の唱歌集に転載されたという“幻の歌”にまつわる話である。

■耕筰を援助した三木佐助

 三木楽器の創業は、江戸期の1825(文政8)年、貸本屋「河内屋佐助」としてである。貸本屋から出版業、さらには楽器販売に乗り出し、1900(明治33)年に出版した『鉄道唱歌』の大ヒットによって財をなす。同社・中興の祖である4代目佐助は、生活が苦しい有能な音楽家らを支援し、大阪における、よき“タニマチ”ともいうべき存在であった。

 とりわけ、耕筰との関係は深い。経済的な支援に加えて、耕筰の作品集を数多く出版。当時、大阪の本社内にあった三木ホールに耕筰をたびたび招いて、音楽会や講習会も開催した。耕筰にとっても佐助は年の離れた“頼れる兄貴”のようだったらしい。同社に残された80通を超える手紙の中で、耕筰は仕事の話はもちろん、生活上の不平不満や愚痴、果ては仲人の依頼までしている。

 三木楽器7代目の当代社長、三木佐知彦(67)は、「まだ耕筰先生が広く世に出る前の時代で、(4代目佐助は)いろんな形で援助をしていたようです。自身に音楽的素養はなかったが、『よい音楽を世に広めたい』という情熱は人一倍強かった。『これは売れる』という勘も鋭かったようですね」

 “幻の歌”が収められた「小学生の歌」は、佐助が耕筰と露風に依頼し、1923年8月に1~4巻が、そして1927(昭和2)年に5、6巻が発刊されている。当時、大阪を中心とした関西の小学校で、副教材として使われたとみられるが、日本国内では全国的に流布した形跡はない。

こうした事情もあって、先の5つの歌のうち、「山田耕筰作品資料目録」(1984年)に掲載されているのは『冬の朝』だけで、著作権を管理する日本楽劇協会にも記録はない。耕筰の養女で同会理事長の山田浩子はいう。「いろいろと調べてみたが、後に朝鮮の唱歌集に転載されたことを含めて詳しい経緯は分かりませんでした」

 ■理想の唱歌集を目指して

 耕筰と佐助の絆(きずな)によって生まれたとも言える“幻の歌”はなぜ朝鮮に渡ったのだろうか。

 その前に、その唱歌集を発行した京城師範学校に触れておく必要があるだろう。同校は、日本統治下の1921(大正10)年、朝鮮・京城(現在の韓国・ソウル)に設立されている。朝鮮内の小学校(主に日本人児童)、普通学校(朝鮮人児童)などの教員養成はもちろん、教育行政や教材発行についても、大きな役割を果たした。

 元安田生命(現・明治安田生命)専務で、同校の同窓会「醇和(じゅんな)会」の最後の会長を務めた青木新(はじめ)(88)=1935年入学=は、「入学試験の競争倍率は極めて高く、とりわけ朝鮮人生徒は全土から、よりすぐりの秀才が集まってくる。学問よりも人格形成、徳育重視が教育方針の学校でしたね」

同校はスポーツ、文化といった部(課外)活動も活発だった。特に戦前の全国大会で、3連覇を果たしたラグビー部の活躍は有名である。音楽部にあたる音楽教育研究会(ワグネル・ソサイエティ)は、1925(大正14)年に設立された。島根大学准教授の藤井浩基(こうき)(43)=音楽教育=によれば、活動を主導していたのは同校の音楽教員であった五十嵐悌三郎(ていさぶろう)や吉澤實(みのる)である。

 1932(昭和7)年、同会は独自の唱歌集作りに乗り出す。耕筰・露風コンビによる5つの歌が収録された「初等唱歌」だ。その目的について吉澤は当時の教育雑誌でこう述べている。「内地と事情を異にする関係より朝鮮向(むけ)唱歌集の刊行は急務なるとせり。(略)郷土に即し朝鮮特有の情緒・風景・人物・史実等郷土的関係材料の作詞、作曲を願ひ…」(藤井浩基「京城師範学校における音楽教育(I)」より)。

 吉澤は同じ文章の中で、「(日本の)作曲家協会より数千の歌曲版権を譲り得た」と書いているから、おそらく、その中に耕筰・露風コンビによる5つの歌も含まれていたのだろう。日本統治時代の唱歌に詳しい韓国の研究者は「いい歌ばかりでしたよ。面白いのは、5つの歌の曲も歌詞も(耕筰ら)東洋人が作ったようには思えないことですね」

 現地の子供たちが楽しんで歌える理想の唱歌集を目指した京城師範の教員らは“めがねにかなった”内地の唱歌を入れたほか、自らが作詞、作曲した『李退渓』(李朝時代の著名な儒学者)や『高麗焼白磁壺(こうらいやきはくじつぼ)』など、郷土色豊かな唱歌を数多く収録。詞の一般公募もしている。

これは、時代背景と無関係ではない。次回以降に詳しく触れるが、この時期の朝鮮統治は、当初の「武断政治」から、融和を前面に打ち出した「文化政治」に大きく舵(かじ)が切られていた。朝鮮総督府が編纂・発行する公式の唱歌集でも、公募制が導入され、朝鮮特有の情緒・風景・人物・史実を取り入れた「独自の唱歌」が大幅に取り入れられている。

 京城師範の教員の熱意によって生まれた「初等唱歌」は同校で学び、小学校や普通学校に赴任した教員によって、唱歌の授業の副教材として使われた。「郷土色が豊かな曲は、現地の子供たちにも愛されたでしょうね」と研究者はいう。

 ところが、それから10年もしないうちに、皇民化教育の流れが強まり、京城師範の教員らも「いや応なくその流れに巻き込まれてゆく」(藤井)。戦後になると、日本時代の唱歌は存在すらタブー視され、5つの歌もまた、“幻の歌”として、長く封印されてしまうのである。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)



草莽崛起  頑張ろう日本! 

       1926(大正15)年、耕筰が三木佐助(本名・登吉)に宛てた手紙(三木楽器蔵)


草莽崛起  頑張ろう日本! 

     5つの歌が収録された1923(大正12)年発行「小学生の歌」(1~4巻)(三木楽器蔵)



草莽崛起  頑張ろう日本! 

                              山田耕筰