「夕刻の備忘録」 様のブログより。
国を売るのは何のため。カネのためか、地位のためか、はたまた何のためだろうか。頭のイカレタ連中のことは全く想像が出来ない。温室が気に入らないからと、それを突き破る植物はない。狭くてイライラするとして水槽を破壊する魚もいない。寒さも暑さも、身を包む衣服があってこそ凌げるのである。雨も風も家があってこそである。国家なきところに国民はない。民族が血の涙で求める安定した国家を、自ら否定し流浪の民を目指すのは、人類歴史上日本唯一国の超異常現象であろう。
安倍元首相が先日、ある出版社のパーティで次のように語っていた。
『従軍慰安婦記述について、「あなたはこれは正しいと思っているのですか?」と、これを確か、当時は会長を務めていた東京書籍の社長さんにお伺いをしたのです。彼はこう答えたんですね。「私達は会社ですから、売れなければ話にならないんです」。こういう答えだったんです。そこで私はこう聞きました。「であるならば、小学校の教科書にこの記述を載せた方が売れるんであれば、そうするんですか?」と質問致しましたら、「安倍さん、当然ですよ」という答が返ってきたわけであります』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14433482
安倍元首相が先日、ある出版社のパーティで次のように語っていた。
『従軍慰安婦記述について、「あなたはこれは正しいと思っているのですか?」と、これを確か、当時は会長を務めていた東京書籍の社長さんにお伺いをしたのです。彼はこう答えたんですね。「私達は会社ですから、売れなければ話にならないんです」。こういう答えだったんです。そこで私はこう聞きました。「であるならば、小学校の教科書にこの記述を載せた方が売れるんであれば、そうするんですか?」と質問致しましたら、「安倍さん、当然ですよ」という答が返ってきたわけであります』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14433482
震災から見えた危機(5)
いびつな「教科書の自衛隊」2011.5.15 01:21
「つなみのせいで、大川小学校のわたしのおともだちはみんなしんでしまいました。じえいたいさんががんばってくれているので、わたしもがんばります」
津波で児童の約7割が死亡・行方不明となった宮城県石巻市の大川小学校。壮絶な環境のなかで、懸命に捜索を続ける陸上自衛隊14旅団(香川県善通寺市)の隊員は同校の児童とみられる女児からこんな手紙を受け取った。動物のイラストが描かれた一枚の便せんに「日本をたすけてください。いつもおうえんしています。じえいたいさんありがとう」とあった。
国民を守る最後の砦、自衛隊員の献身的な姿には、全国から称賛が集まった。
だが、「教科書」に描かれる「自衛隊」は相変わらずさんざんだ。全国シェア60%超で中学校で最も使われている「東京書籍」の教科書から引用してみる。
《平和や安全を守るためであっても、武器を持たないというのが日本国憲法の立場ではなかったのかという意見があります》
《自衛隊の任務の拡大は、世界平和と軍縮を率先してうったえるべき日本の立場にふさわしくないという声がある》
《従来の『安全保障』は(略)国家の軍事力による『国家の安全保障』でした。しかし、(略)国家の安全保障だけでは人々の安全と平和を確保できない場合もみられ(略)そこで、人間一人ひとりに着目し、その生命や人権を大切にすべきだという『人間の安全保障』という考え方が出されています》
《私たちは日本国民としての意識だけでなく地球に生きる人間(地球市民)としての意識を持つことが求められています》
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110515/edc11051501220000-n1.htm
文科省の検定は公立学校の教育に「必要だ」というだけで、それをそのまま受け入れなければならない義務は国民にはない。検定済みの教科書の中から、国民が選択できるはずである。その選択権を教師に一任した覚えはないのである。我々から声を挙げて、少しでも「好いもの」に変更させるべきである。
金儲けをしたい出版社には決して儲からないように、金儲けを度外視する出版社には金が儲かるように、国民が道筋をつけていけばいいのだ。金の亡者は金の夢でも見ながら滅びるがいい!
大人がその責任を果たさない中に、遂に子供の方から「教科書を捨てる運動」が起こるだろう。検定云々以前の段階で、面白くも可笑しくもない、薄っぺらで色だけ派手な安物教科書の御世話になろうという子供は、既に減ってきているのである。
ネット検索を「安易だ」「他人のコピー丸出しだ」と批判する前に、いかがわしい教科書にドップリと浸かっているよりは、余程マシであることを親達は知るべきであろう。少なくともネット上には「生の事実」が転がっている。一方、教科書にあるのは、ある種の思想によってねじ曲げられた「事実の断片」に過ぎない。過去のどの世代よりも、今の子供達は「歴史の真実」に触れるチャンスがある。このチャンスを潰すことに躍起になっているのは、真実を知られては困る連中である。
追加:産経は毎度毎度見苦しいルビのキテレツ表記を止めよ!
『~アドバイザーだった
小(こ)佐(さ)古(こ)敏(とし)荘(そう)
東大大学院教授(放射線安全学)~』
ネット上でルビを使うなら、「小佐古 敏荘(こさこ・としそう)」とすれば済む話ではないか。マスコミ人は常に国民を見下し、表記を簡略化するのは「読めない人」のためだと得意の詭弁を弄してきた。ここまで来て、その滑稽さに気付かないのなら、逆に見下されるのも致し方無いと知るべきである。国民はマスコミほどバカではない。担当者は東京図書の教科書で学んだのだろうが、余りにも酷すぎる。
文科省の検定は公立学校の教育に「必要だ」というだけで、それをそのまま受け入れなければならない義務は国民にはない。検定済みの教科書の中から、国民が選択できるはずである。その選択権を教師に一任した覚えはないのである。我々から声を挙げて、少しでも「好いもの」に変更させるべきである。
金儲けをしたい出版社には決して儲からないように、金儲けを度外視する出版社には金が儲かるように、国民が道筋をつけていけばいいのだ。金の亡者は金の夢でも見ながら滅びるがいい!
大人がその責任を果たさない中に、遂に子供の方から「教科書を捨てる運動」が起こるだろう。検定云々以前の段階で、面白くも可笑しくもない、薄っぺらで色だけ派手な安物教科書の御世話になろうという子供は、既に減ってきているのである。
ネット検索を「安易だ」「他人のコピー丸出しだ」と批判する前に、いかがわしい教科書にドップリと浸かっているよりは、余程マシであることを親達は知るべきであろう。少なくともネット上には「生の事実」が転がっている。一方、教科書にあるのは、ある種の思想によってねじ曲げられた「事実の断片」に過ぎない。過去のどの世代よりも、今の子供達は「歴史の真実」に触れるチャンスがある。このチャンスを潰すことに躍起になっているのは、真実を知られては困る連中である。
追加:産経は毎度毎度見苦しいルビのキテレツ表記を止めよ!
『~アドバイザーだった
小(こ)佐(さ)古(こ)敏(とし)荘(そう)
東大大学院教授(放射線安全学)~』
ネット上でルビを使うなら、「小佐古 敏荘(こさこ・としそう)」とすれば済む話ではないか。マスコミ人は常に国民を見下し、表記を簡略化するのは「読めない人」のためだと得意の詭弁を弄してきた。ここまで来て、その滑稽さに気付かないのなら、逆に見下されるのも致し方無いと知るべきである。国民はマスコミほどバカではない。担当者は東京図書の教科書で学んだのだろうが、余りにも酷すぎる。