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ブラッド・スウェット&ティアーズ



1966年夏のビートルズの来日で火が着いた日本のGSブーム。この未曾有の大ブームが燎原の火のように燃え盛っていた1967年から68年頃まで、イギリスのロック・シーンは不幸な停滞期にはいる。

「俺たちはキリストよりポピュラーだ」の舌禍事件で身の危険に曝されるようになったビートルズはツアーをやめる。ストーンズもバンド内の不和と麻薬事件で活動が衰える。

ミューズの神に愛された金髪の王子、ブライアン・ジョーンズを警察は悪の音楽、ロックのスケープゴートとして追い回した。それは彼がプールで謎の溺死をとげるまで続く。この悲劇は皮肉なことにストーンズを解放するメルクマールになった。

この間、海の向こうではアメリカン・ロックの巻き返しが始まる。いかにもアメリカ人らしい、カントリーとジャズの影響が色濃い音楽がブリティシュ・ロックの白い余白を埋めた。

1960年代の後半。平凡パンチなどではブラッド・スウェット&ティアーズやシカゴ、CCR が盛んに取り上げられたもんです。

彼らの音楽は当時はブラス・ロック、ジャズ・ロックあるいはニュー・ロックと呼ばれましたが、同じ時期、若者のメディアを賑わした日野皓正も当時はニュー・ロックの旗手と呼ばれたりした。実際、私の大学の同級生でアルバイトにナイトクラブでジャズをやっていた男はBS&TやCCRをジャズ・バンドだと言い張ってましたね。

BS&Tは人気絶頂の頃、西側のロック・パンドとして初めてソ連で公演する。このときにボーカルのデレク・クレイトン・トーマスはソ連の国旗の象徴だったハンマーを客席に投げ入れた。

当時の私たちはソ連という帝国が20世紀中に崩壊するとは夢にも思っていなかった。だがソ連が崩壊した今、私は思う。BS&Tは当時のソ連で公演することによって鉄のカーテンを揺るがしただけではなく、あのハンマーはソ連という帝国に見えない亀裂を与えたのだと。

GSブームが一朝の夢のように消えていったあと、寺内タケシ兄貴はエレキギターの伝道師として日本中の学校で公演してまわった。日本だけではない。兄貴はソ連でも何度も公演しています。兄貴のエレキギターもソ連の若者の心に自由の風をもたらした。私はそう思いたい。

私がロック喫茶で働いていた当時、一番人気があったブラッド・スウェット&ティアーズの曲は『スピニング・ホイール』。ではなくて『アイ・ラブ・ユー』だった。私も好きな曲です。このシリーズに付き合ってくれた読者の方へのサービスに動画を貼り付けておきました。

時は帰らず、だ。[完]


I LOVE YOU MORE THAN YOU'LL EVER KNOW

注;この名曲のボーカルは1枚目だけでBS&Tを去った天才アル・クーパーです。

動画と書きましたがやはり当時の映像はなかったですね。曲だけです。60年代末から77~8年頃までは映像氷河期ですからね。ザンネンですが。