個人的な話なのですが、私も韓国に来てもう随分になります…韓国語を学んでみて、言葉とは文化なんだなぁ…とよく感じるところがあります。


お父様が“お父様の言葉を学ばなければならない…”というようなことをよく言っておられたように思います。


私はその言葉を聞いた時、単純に韓国語?と考えました。

ですから、韓国で生活をしながら韓国語を学べるということに、とても感謝でもありました。


しかし最近になって、教会内の混乱を見つめながら、混乱の原因となっているのが、ここ韓国のような気がします。。


混乱の中心に、韓国語を母国語とする人たちがいるのではないのでしょうか。


お父様の言葉…というのは、単純に韓国語ではない…と思うようになりました。


言葉は文化、お父様の言葉とは神様の言葉…(お父様の言葉自体が神様の言葉ではなく)神様のみ旨を中心とした言葉…ではないのだろうか…?と考えるようになりました。


外的にお父様のみ言を語っていたとしても、神様のみ旨を中心とした心情で語っていなければ、それはただ、お父様のみ言を引用しただけの言葉であって、お父様の言葉ではない…と感じるようになりました。


神様のみ旨を中心とした心情で語られる言葉こそが、お父様の言葉である…と思います。


外的には、韓国語であろうと、英語であろうと、日本語であろうと…関係ないのです。神様のみ旨に対する心情があるのかないのかが問題であり、語る言葉に神様の文化があって初めてお父様の言葉となるのではないのでしょうか。


神様は心情の神様であり、人類の親ですから…

外的な言葉の形が問題ではなく、言葉を語る内的な心情が問題であると思います。