175 大特許状 | Κύριε ἐλέησον -Die Weltgeschichte-

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175
[大特許状]

  ―――――1361年。

 神聖ローマ帝国/ボヘミア王国首都プラハ。

フラチャヌィの丘の上に建つプラハ城は、大改修の最中でした。

カロリング調の建築に変わって10世紀後半から流行り出した、
四角く重厚な佇まいで、
内装は半円アーチの窓などが特徴の建築様式。
そんなローマ風(『ロマネスク様式』(厳密には違う))石造りの様式は、
12世紀頃になると、また新しい様式が好まれるようになっていました。

それは、12世紀ころからフランス北部で次第に増えていた様式で、
ビザンツ様式や、古くはペルシアの様式などを巧みに組み合わせた様式。
高い塔と細い柱。
天井は高く、先の尖ったアーチ状の梁。
そして大きなバラ窓(円形の複雑な模様が描かれた窓)も特徴的。
壁に大きく開けられたバラ窓からはたくさんの光を取り込み、
場内の装飾をきらびやかに演出してくれます。
細く作られた柱はより高く見せる事ができます。
見事なまでの繊細な直線と曲線美。
サン=ドニ大聖堂を始め、
シャルトル、ラン、ランスなど各地のノートルダム大聖堂がその様式で改築されています。
多くのバシリカが、この数百年で美しい姿に変わっていきました。
イタリアの人達からは、
「ゴート人のようで野蛮だ!」と嫌がられていたようですが、
この様式はフランスの国境を越えて、
イングランド、神聖ローマ帝国にも拡がっていました(『ゴシック様式』)。

いくつかの城もこの様式による改築が行なわれており、
ここ、プラハ城も、ただいま改築が行なわれ、
増築されている最中でした。
古いロマネスク様式の建物の中央には、
その新しい様式の高い塔を持つ聖ヴィート大聖堂が建てられており、
一際目立っていました。

そして、眼下に流れるヴルタヴァ川。
プラハの街はヴルタヴァ川によって分断されていましたが、
それを繫ぐ橋の建築が始められていました。
設計士のペトル・パルレーはまだ30歳の若き建築家。
彼の号によって次々と資材が運ばれて来ていました。

城下町も人の行き交いが増え、商人も増え、大学も建てられ、
街は大きく成長していました。

プラハは、パリにも負けんと拡大を始めていたのでした。

―――――……‥‥・・

   ―――――……‥‥・・
    ・・‥‥……―――――

     ―――――昨年1360年のこと。

皇帝カール4世(1316-,当時44歳)は、報告に、露骨に嫌な顔をしました。

「オーストリアからの親書だって?
 ルドルフめ、何を考えている………。」

そう言いながら文書を受け取り、読み始めました。
読んでいて、カール4世は頭が痛くなりました。

差出人は、1358年に父を亡くし、
オーストリア公爵領を相続したルドルフ4世(1339-,当時21歳)。
ルドルフ4世には、次女のカタリナ(1342-,18歳)を嫁がせているので、
義理の息子に当たります。

カール4世は文書を置きました。

「彼はとんでもない事を言って来たぞ。
 彼は、オーストリア公、シュタイアーマルク公、
 ケルンテン公、クライン公のみではなく、
 シュヴァーベン公、アルザス公、
 さらにプファルツ大公位をも所持しているという。」

聞いていた家臣は驚きました。

    「へ?あ、あの……?
     シュヴァーベンにプファルツ?
     って……、、
     ヴィッテルスバッハ家の領土ではないですか!」

カール4世は頷きました。

「シュヴァーベン公爵位保持者には、
 私が金印勅書にカラクリを入れておいたからだな。
 ふざけた事を……。
 プファルツ(ライン宮中伯)は選帝侯の一人。
 まったくの、詐称だな。」

先代のオーストリア公は、アルブレヒト2世(-1358)。
アルブレヒト2世時代にオーストリアは地位を高めていたものの、
皇帝カール4世が発布した『金印勅書(1356年)』によって定められた『七選帝侯』から、
ハプスブルク家は除外されてしまっていました。
七選帝侯とは、
マインツ大司教、トリーア大司教、ケルン大司教の三つの聖職と、
ライン宮中伯(プファルツ)、ブランデンブルク辺境伯、ザクセン公、
これに加えて、ボヘミア王の四つの世俗君主からなります。
『選帝侯』とは帝国内であらゆる権利を有し、
次代皇帝を選び出す選挙権を持ち合わせている職。
それを金印勅書によって七職に固定し、
帝国内の凡ゆる権利も与えられました。
ハプスブルク家と同様に七選帝侯から除外されたのはヴィッテルスバッハ家。
この二家は帝国内でも影響力の高い家であったので、
ルクセンブルク家のカール4世は、
その影響を新しい政治制度で巧みに排除しようとしたのでした。

アルブレヒト2世は決定に異議を唱えたものの、
結局は渋々従わざるを得ませんでした。

ところが、その継承者であるルドルフ4世は、諦めていなかったのです。

    「それに……、
     Erzherzog(大公)という称号は、私は初耳ですが……?」

「私だって初耳だ。
 奴が言うに、
 『司教(Bischof)』の上に『大司教(Erzbischof)』があるように、
 『公(Herzog)』の上には『大公(Erzherzog)』があるのだと。
 しかも、
 七選帝侯よりも高位であり、彼等よりも特権を有し、
 自領内で封土を与える権利も有するのだそうだ。
 だからこそハプスブルク家は『大公位』を名乗れるのだそうだ。」

    「なんと!!自惚れも甚だしい!!」

「本当にな。
 さらに、フランスのように、教会も独立する意向があるらしい。
 まったく!
 オーストリア公とはどれだけ偉い身分なのだ!」

カール4世は苦笑しました。

「これだけ大口を叩くのなら、
 それなりの証拠を見せて貰いたいものだな。」

カール4世は親書を持参した人物に向き直りました。

「ルドルフ4世に伝えよ。
 『其方が何故、
  七選帝侯よりも特別な権利を有していると言えるのか、
  その証拠となる文書を提出せよ』と!」

  ―――――……‥‥・・
    ・・‥‥……―――――

  ・・‥‥………―――………‥‥・・

      ―――――1361年現在、プラハ。

「ルドルフ4世から返事だと?」

カール4世の所へ、再びオーストリアからの使者が訪れました。
ルドルフ4世からの書簡には、5通の特許状と2通の手紙が含まれていました。

特許状には、オーストリア内のあらゆる権利に関する条項が記されていました。

それは、1156年に発行された『大特許状』に問題があると主張されたものでした。
その大特許状とは、オーストリア辺境伯、ライン宮中伯、
バイエルン公を兼ねていたバーベンベルク家が、
既に没収されていたライン宮中伯に加えてさらに没収されるバイエルン公爵位の代わりとして、
オーストリア辺境伯爵位を公爵位に格上げする権利を与えたものでした。

「ふむ………?」

カール4世は興味を示し、考え込みました。

 ・・‥‥……―――その特許状が発布されるさらに昔。

 1138年当時、
時の皇帝はホーエンシュタウフェン家のコンラート3世(1093-1152)。
当時のホーエンシュタウフェン家はシュヴァーベン公爵位も有していました。
コンラート3世は、対立するヴェルフ家ハインリヒ10世傲慢公(1100-1139)の拡大を嫌い、
ヴェルフ家が有したバイエルンを没収。
その地を、
バーベンベルク家のオーストリア辺境伯レオポルト4世(1108-1141)に与えました。

ところがその後、傲慢公の子ハインリヒ獅子公(1129-1195)がバイエルンの返還を求めました。
レオポルト4世を継いだオーストリア辺境伯ハインリヒ2世(1109-1177)は、
既にライン宮中伯領をも失っており、
簡単にバイエルンを手放したくはありません。
そこで領土を返還する代わりとして、
辺境伯爵位を公爵位に格上げする事を約束したのです。
伯から公への格上げとは、
統治に関するあらゆる権利が認められるという事です。
1156年、
ホーエンシュタウフェン家の皇帝フリードリヒ1世バルバロッサ(1122-1190)は、
その交換条件を『大特許状』として認め、
バイエルン公爵領はヴェルフ家に戻り、
オーストリア辺境伯は公爵として格上げとなりました。

そんな経緯でヴェルフ家は、
再びバイエルンを有する事になったのです。

それよりも14年前、ヴェルフ家は1142年に、
バイエルンと同様に没収されていたザクセン公爵領もアスカーニエン家から奪取しており、
『大特許状』によってヴェルフ家は、
バイエルンとザクセンの両方を取り戻す事に成功したのでした。

しかしそうなると、
ヴェルフ家の強大化を教会側は嫌います。
獅子公は様々な理由を付けられて、
不服罪で追放されてしまう憂き目をみます。

そしてヴェルフ家の領土は―――。

1180年、バイエルン領は、
当時ほぼ無名のヴィッテルスバッハ家に与えられる事になります。
ライン宮中伯爵位(プファルツ選帝侯位)も一時ヴェルフ家の手にありましたが、
1214年を持ってヴィッテルバッハ家に渡される事になりました。

ザクセン領はアスカーニエン家に戻されました。
アスカーニエン家は、選帝侯の一人でもあるブランデンブルク辺境伯位も有していました。

ここに、ヴェルフ家の代わりにアスカーニエン家が支配力を高め、
また新たにヴィッテルスバッハ家が台頭し始めるのです。

一方シュヴァーベン公爵位は、
代々ホーエンシュタウフェン家によって継承されていました。
ところがハインリヒ6世皇帝(ホーエンシュタウフェン家、1165-1197)の時代に、
ボヘミアの王位を主張するボヘミア公、
プシェミスル家のオタカル(1155-1230)が登場します。
帝国内のヴェルフ家とホーエンシュタウフェン家の激しい争いの中、
ボヘミア王の介入で争いは混乱を極めました。

『皇帝位とシュヴァーベン公爵位』は、教皇庁の陰謀によって、
一度、ヴェルフ家のオットー4世(1175-1218)に渡った後、
再びホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ2世(1194-1216)へと戻ります。
が、混乱期は続いており、
やっと登場するのが、
当時全く影響力の無かった小貴族のハプスブルク家なのです。

教皇庁が握っていたヴェルフ家とホーエンシュタウフェン家の戦争の鍵は両家を疲弊させ、
今度はそれは、プシェミスル家とハプスブルク家の戦いに引き継がれます。
但しもちろん、スラヴ系のプシェミスル家に帝位を授ける訳にはいきません。

結果、1273年、
ハプスブルク家のルドルフ1世(1218-1291)が即位するのです。

ところがルドルフ1世の力は、教会の思惑に反して強大でした。
1282年には断絶したバーベンベルク家の領土であるオーストリア公爵領を獲て、
シュタイアーマルク公とケルンテン公の領土も、
プシェミスル家に勝利して獲得しました。

前後して1268年、
ホーエンシュタウフェン家の断絶と共にシュヴァーベン公爵位は消滅します。
領土は、地元の領主によって継承されるも、
1273年からは、ハプスブルク家が支配するようになります。
ルドルフ1世の息子アルブレヒト皇帝(1255-1308)とルドルフ2世(1270-1290)の兄弟が統治を開始するのです。

斯くして領土と名声を大きく広めたハプスブルク家。
ようやく陽の目を見たかと思えば、事件が発生してしまいます。

1308年の事、
ルドルフ2世の息子ヨハン(1290-?)が、
伯父のアルブレヒト皇帝を暗殺してしまうのです。
暗殺実行犯は尽く処刑されましたが、
当のヨハン(肉親殺しと渾名された)は行方を眩ましたまま。
事件によって、ハプスブルク家は威厳を失いました。

そんなハプスブルク家は、
ウーリ州を中心とした盟約同盟によって出生地のスイス一帯から追放され、
地位を失いました。
シュヴァーベンの地域もスイスによって奪われてしまい(1313年)、
この地域はヴュルテンべルク家が治めるようになります。
ハプスブルク家は、
帝国の東方の変境地オーストリア、
ウィーンに閉じ込められる形となってしまいます。

殺されたアルブレヒト皇帝の後継に支持されたのが、
フランス王国と縁深いルクセンブルク伯のハインリヒ7世(1275-1313)でした。
その息子ヨハン(1296-1346,後の盲目王)が、
プシェミスル家ボヘミア王女エリシュカ・プシェミスロヴナと縁組し、
晴れて、ルクセンブルク家が皇帝位とボヘミア王位を取得。

一方、ブランデンブルク辺境伯位を継いできたアスカーニエン家宗家が1320年に断絶。
これがヴィッテルスバッハ家に継承される事になりました。
ブランデンブルク辺境伯は選帝侯の一人。
ヴィッテルスバッハ家は、ライン宮中伯とブランデンブルク辺境伯の二つの選帝侯位を得る事になりました。

ところが勿論、この両分家にカール4世は息を吹き掛けていました。

ライン宮中伯位は、現在ループレヒト1世(1309-)。
その兄が若くして亡くなってしまい、
爵位を継ぐべきループレヒト2世(1325-)は当時1歳。
ループレヒト1世亡き後はループレヒト2世に継承される事が明確化されており、
現在36歳となるループレヒト2世に接触し続けています。

ブランデンブルク辺境伯はルートヴィヒ6世(1328-,33歳)。
ブランデンブルクはルクセンブルクやネーデルラント諸国とも縁深い土地。
その北、エノー・ホラント・ゼーラントを支配するのは同母弟のヴィルヘルム(1330-,31歳)ですが、
精神異常の為に幽閉されており、
同母弟のアルブレヒト(1337-,24歳)が全地を統治していました。
裕福なネーデルラントを領有する彼は、
ヴィッテルスバッハ家という歴史ある名を軽視し、
有益なる事を考える人物でした。
北ネーデルラントの状況がそんなで、
実兄ルートヴィヒ6世も、カール4世を受け入れる姿勢を見せ始めていました。
だからこそ、ブランデンブルク辺境伯は選帝侯に任命されたのです。

  ・・‥‥………―――――

カール4世はルドルフ4世から受け取った特許状を読みつつ、
頭の中の抽斗からそんな神聖ローマ帝国の歴史を手繰っていました。

ぎっしりと文字が敷き詰められた特許状。
そこには、オーストリアの地を治めるものの権利について、
ハプスブルク家がこれまでに不正に奪われた土地、
得るべくして得た土地、条約によって得ていた筈の土地……、
確かに、オーストリア公たる身分が、
シュヴァーベン公やプファルツ選帝侯の爵位を主張するに足る内容が書かれていたのです。
カール4世は深く溜息を吐きました。

「ふーーむ……。
 なかなかの“出来”だな、これは。」

周りの家臣達も気になり、特許状を手にしました。

    ―――なんと……!―――
     ―――これは、彼の主張は正しかったのか!―――
    ―――驚いた事だ!―――
      ―――うーむ、確かにシュヴァーベンは、
        ルドルフ殿の権利かも知れない。―――

      「これは……っ!!!
       これを見て下さい!」

一人が驚きの声をあげました。
家臣達はその手紙に寄りました。

  「す、凄い……!
   彼の権利は、
   あのユリウス・カエサル(BC100-BC44)と、
   第5代皇帝ネロ(AD37-68)が認めている!」
  「なんという事だ……!
   あの時代から決められた事ならば、従わざるを得ないのか?!」

カール4世は頷きました。

「そうなのだ。
 この手紙はユリウス・カエサルとネロの物で、
 彼らの言葉に、
 オーストリアの領主の持つ権利が明記されているのだ。」

ルドルフ4世から届いたこの特許状。
内容は、権利に関してとても細かく書いてあり、
信憑性が高いと思われました。

    「まさか……、こんな事って……!」

    「ハプスブルク家がシュヴァーベンの物になるとすると、
     ドイツ南西部が殆ど彼の物に……!
     バイエルンとチロルが挟まれてしまうぞ……!」

    「ま、待ちなされ、早合点してはならぬぞ?!」

     「その通りだ!
      それは、本当に本人のものなのか!?
      鑑定を依頼しよう!!」

家臣たちが一通り騒ぎ終えるのを見届けると、
カール4世は頷いてから言いました。

「それを私の判断で断定する事は出来ない。
 我々では無い、他の信頼出来る人物による鑑定が必要になるね。」

        「では、ペトラルカ殿が適役では?」
        「そうですな、
         詩人でもある彼は、古い文献も良く研究している。
         ペトラルカ殿なら信頼出来る。」

カール4世自身が発布した金印勅書に反論する為の特許状を、
カール4世自身が否定する事は出来ません。
そこで、名学者であるフランチェスコ・ペトラルカに鑑定を依頼する事になりました。

   後日、書類を受け取ったペトラルカは、
   割りと直ぐに返事を返しました。

    「この文書は、本気で書いたのですかね?
     だとしたら、彼はとんでもない空け者ですね。
     それらしい事が記載されてはいますが、
     1300年前の人間が、
     数年前に出されたばかりの金印勅書の内容を知るはずがありません。
     二人の手紙にしろ、他の特許状にしろ、
     少なからず金印勅書ありきの考え方に基づいています。
     皇帝陛下はこの文書を見てどのような反応をされましたか?
     おそらくは、
     御自身でも感心するくらいの“出来”だったと感じているかも知れませんね。」―――と。

 ―――――……‥‥・・・‥‥……―――――

「―――そんな訳で、オーストリア“大公”殿。
 貴方がどんな爵位を名乗ろうとも、
 この文書は偽りだらけであると判明しました。
 シュヴァーベンもプファルツも、
 オーストリア公殿の、
 あ、いや、“大公”でしたかな?
 ……の物ではありません。
 オーストリア、ケルンテン…。
 東方のみなのです。
 おわかり、いただけましたかな?」

   ―――――……‥‥・・・‥‥……―――――

    ―――――……‥‥・・・

  ――――――……‥‥・・・

―――――そんなオーストリアのルドルフ4世。

ウィーンでは山火事が相次ぎ、彼の頭を悩ませていました。

まだまだ田舎町だったウィーンの都市化を目指したルドルフ4世は、
新しい大聖堂の建設を初めに、多くの建て替え事業を行なっていました。
この為彼には、“建設公”なんていう渾名まであります。
都市機能の充実は市民に喜ばれ、仕事も与えられる事に繋がります。
しかしその為の森林伐採も増えていました。
オーストリアは周りが標高の高い山々に囲まれている為、
とても生産能力に乏しい土地でした。
その為に不作の時には他国を頼るしかありません。
高いアルプスの山々ですが、
その中でも最も標高の低いヴィピテーノ峠は、
帝国の諸都市から南のイタリア半島へ抜けるほぼ唯一の道。
ルドルフ4世は、そんな玄関を有するチロルを欲していました。
もちろんそれは頼みの綱であり、自国内の土地の開拓は必須。
少しでも多く畑や果樹園を開墾する為に、
そして新しい都市建設の為に、
生産性の無い森を次々と伐採していたのです。

森を焼けば、禿げた山には風が吹き抜け、
火事が発生し易い状態となってしまっていました。

「また火事だと?!」

    「はい……、乾燥が続いて、自然火災も頻繁です……。」

「ぶどう園はどうなんだ?」

    「何処も火の手が回っていて、もう………。」

ルドルフ4世は頭を抱えました。
山野が焼けると、作物への被害が甚大。
それは、ウィーンの、オーストリア全体の経済にも大打撃を与えるものでした。

「そこで考えたのだ。
 自国内に暮らす聖職者も我が国民なのだ。
 彼等も他の国民と同様に土地税を払うべきだ。」

これは、古い時代にフランス王国内の教会へも発布された文書にも記載された内容で、
国内教会の独立を目指すものでした。
当然ながら、教会はこれを快く思いません。
しかし、例の特許状を作らせた彼の事、
巧みに教皇庁の介入を避ける事が出来ていました。

また彼は、自身の持つオーストリア公爵位の特権である貨幣改鋳権を放棄しました。
これは豊凶になどよって毎年改鋳できる権利で、
近年は毎年のように貨幣価値が上下していたのです。
それでいて、旧貨幣と新貨幣は強制的に交換しなければなりません。
そんな制度を公爵自ら放棄し、
代わりとして酒税をかけるなど、新税の導入を行ないました。
が、貨幣価値の上下に比べれば混乱も無く、
市民にとってはありがたい事だったのでした。

他にも地主階級や高位聖職者の特権を廃す改革を幾つか行ない、
「決めた事は絶対だ」と折れないルドルフ4世に対して、
地主階級の者たちは畏怖の念すら抱いていました。

   ・・‥‥……―――――

 ―――――1361年9月下旬―――――。

    「ルドルフ4世殿っ!
     バイエルンよりの報告です!
     上バイエルン公爵ルートヴィヒ5世殿が、
     ご逝去されました!!」

ルドルフ4世は目を見開きました。

「よし……、いよいよチロルを我が手に!」