震災覚書 2 | 佐藤裕也眼科医院のブログ

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電気が通じて真っ先にインターネットニュースをみました。

そのトップに、佐賀県から岩手の被災地に向けて、

荷物を満載した大型トラックの一団が出発する、とありました。

高速道は閉鎖されているので、どうやって来るのだろうと

思っていましたが、翌日の深夜、東二番丁を北に向けて真っ暗な中、

轟音をとどろかせて疾走する、佐賀ナンバーの大型トラックの

一団がありました。

並走しながら窓をあけて、手を振りましたが、涙があふれて

仕方がありませんでした。


仙台空港では、1万台ほど車が流されましたが、米軍のおかげで

滑走路は1週間で使用可能となりました。

津波で全滅した仙台市の海岸方面は、昼夜を問わず

米軍がパトロールしていました。その後、全国各地の県警の

パトカーに入れかわりましたが。

米軍のトモダチ作戦には感謝でいっぱいですが、その頃の

沖縄タイムスの社説に「トモダチ作戦にだまされるな」と

いう趣旨の記事が出たようです。


岩手県大船渡に知人が多く、安否が全く不明でした。

大船渡からの連絡は復旧工事に来たNTT職員に依頼して

盛岡に戻って、こちらに伝言、という方法で、安否の

確認が出来ましたが、こちらからは一切不可能で、

直接行って確認するしか方法がありませんでした。

初めて大船渡に入ったのは4月末、桜が満開でした。

ガレキの中に咲いている桜は、妙に美しく感じられて、

一層悲惨さを際立たせていました。


大船渡には警視庁が派遣されていて、午後3時頃には

バスで一斉に一関方面に戻って行きました。

道を歩いているお年寄りが、皆立ち止って

通りすぎるバスに頭を下げている姿が印象的でした。