「山口二矢」

山口二矢は大正の文豪村上浪六(なみろく)の孫である。二矢の父親は、当時、自衛隊の中級幹部だった。はじめ兄が党員だった赤尾敏の大日本愛国党に入ったが、赤尾と感情対立して脱党。ついで全アジア自由反共青年連盟に入り暴力的な右翼活動に傾いていった。安保改正賛成のビラ配りで何度も検挙され、原水爆禁止世界大会には先陣を切って殴り込んで警官を負傷させた。

検挙歴は1年足らずのうちに14回という札付きのテロリストとなり、昭和34年には保護観察処分となったが意味がなかった。

彼のテロ目標は浅沼委員長、小林日教組委員長、野坂日共議長3人であった。外部から植えつけられた「彼らは中ソの出先機関である」という観念に捉えられて、ついに浅沼委員長の暗殺を決行する。

暗殺後に逮捕され、動機や背後関係などを追求されたが、背後関係は不明のまま少年鑑別所に移された彼はシーツを裂いてひも状にし、天井の電球を包む金網にそれを引っ掛けて縊死自殺した。

コンクリートの壁には水で溶いた粉歯磨きを指につけて「七生報国 天皇陛下万才」と書かれていた。