首斬り浅右衛門こと山田浅右衛門は、江戸の元禄年間(1688)から、なんと明治14年(1881)まで代々、死罪人の斬首役を担当していました。江戸時代には幕府職制上の役についてはいませんでした。「浪人」の身分であるものの”徳川家御佩刀御試御用役”を承る家柄でした。御用商人同様に”御用”を称していました。

御試とは、将軍家が佩用すべき刀剣で人間の屍体(胴)を斬って切れ味を試す役目でした。不浄なる死罪人を斬るわけですから、その役を幕府役人以外に置かれたのです。

もともと斬首役は浅右衛門ではなく町奉行所の同心たちの仕事でしたが、罪人とはいえ人の首を斬るのは誰でも嫌ですし、首を一発で斬るのにもそれなりの技術が必要でした。

元禄年間に首斬り役を嫌がった同心の一人が、代役を浅右衛門に頼んだところ、それがいつの間にか首斬りは浅右衛門という慣例ができてしまったのです。首斬り役の同心には首斬り代として二分の手当が出るので、首斬りを浅右衛門に譲って自分たちも労せずして収入を得ていたのです。

山田家は、万石の大名に匹敵するほどの大勢の弟子や雇用人を抱えるだけでなく、数棟の土蔵を設けた家構えだったといいます。試し斬りの礼金に刀剣鑑定料などいくつかの副業で入る収入が多かったようです。

浅右衛門の変わった副業のひとつに「人胆丸」の製造がありました。これは人の生肝を使った薬のことです。浅右衛門は刑死者の生肝をもらい受ける権利を得て、人胆丸製造を独占していたからです。ちなみに人胆丸は労咳(結核)に効果があると言われてものすごく売れたのだそうです。

山田家では斬首のあった日に平河町の自宅に芸者を呼び、弟子たちとともに夜通しで宴を催したといいます。金があるからということではなく、斬首した後味の悪さから酒を飲んで大騒ぎしなければ精神安定がはかれなかったのだと思われます。

そのためか大した蓄財はなく、首斬り役の仕事がなくなってからの山田家は惨めな生活を送ったと言われます。

明治15年(1882)1月1日に斬首刑は廃止になりました。