広島県呉市の港は、明治以降、帝国海軍の重要な軍用港になっていました。そして現在でも海上自衛隊の重要拠点となっています。地形的には「天然の良港」と言われる呉港は、中世には瀬戸内海で暴れまわった海賊、村上水軍の勢力拠点でした。

広島県呉市は、戦艦大和を製造した軍需産業都市であり、そのために太平洋戦争末期には米軍の集中的な空襲を受けて多くの人々が亡くなりました。戦時中には「学徒動員」によって広島県以外から数多くの学生が強制動員され、終戦までに1万人以上が犠牲になりました。

日本テレビのドキュメンタリー番組「NNNドキュメント68年越しの卒業式」を見ました。2005年のこと、鳥取市の鳥取敬愛高校(旧鳥取高等家政女学校)資料室から太平洋戦争中に呉市に学徒動員され、広海軍工廠で働いた女生徒(16歳)の日記が見つかりました。この日記をもとに鳥取敬愛高校社会部の上司校生たちは、先輩たちの歴史を掘り下げることにしたのです。

鳥取高等家政女学校 からは、337人の女学生が学徒動員されました。日記を読むと、学徒動員された自分たちの先輩たちの辛い日々が浮き彫りになりました。先輩たちの日記には「4月4日、夕べ十時頃、敵機来襲、物凄い低空で照明弾を落としては、どかどか爆撃する。高射砲の音と入り乱れて、生きた心地もない」といった苦しい日々が記録されてしました。

後輩たちは、先輩たちに宛ててアンケートを行います。当時の苦労を深く知りたいと考えます。返ってきたアンケートには「食事が十分ではなかった」「つらかった」「工場までが一番遠いために往復の途中で空襲警報になったり、三交代制で冬季夜勤に向かう辛さは筆舌には語れません」などと書かれていました。

2006年8月、後輩と先輩たちは広島県の呉市に向かいます。先輩たちが働いていた広海軍工廠や大和ミュージアムを見学しました。工廠跡の前で先輩たちは「爆風がものすごくて耳をふさいで目をつぶってしゃがんでね…工場から出てみたら一面が瓦礫の原になっていて、工場の鉄骨がメラメラと燃え、熱でグニャグニャとなっていた」「頭からいっぱい血を出して担架で運ばれるのを見たことがある」と当時の記憶を語っています。

戦艦大和ファンだという後輩の一人が、天国だと称する「大和ミュージアム」に設置されている人間魚雷回天の前で先輩たちに「回天のハッチは外からしか開けられない。中に入ると1日分の酸素もなかった、だから結局は自滅ということなんですよ」と面白そうに語るのですが、実は先輩たちの一人は回天の部品を作っていたのです。その方は「国のため国のためと思って若人が犠牲になって本当に何とも言えません…」という感想をもらしていました。

調査の最後に先輩の一人が後輩たちに向かって「今は若いけど、私たちはあっという間に80近くになった。年取ったときに”あの時に頑張っておればよかった”と後悔しても追いつかない。だから今は、しっかりと大事に将来にことを考えて一生懸命に勉強してください」と挨拶しました。

その後、後輩たちは先輩の生の声を聞いたことで、自分の身に置き換えて考えるようになりました。「空襲で死ぬのは嫌だから、私だったら、逃げて誰かにかくまってもらう」と語る後輩たちには、当時の国家プロジェクトとしての”学徒動員”の意味がよく理解できていないのですが、当時を生きることがないのですからそれは無理もありません。

呉に同行した先輩の家で再取材した際に先輩たちの多くは「卒業証書」をもらっていないということがわかるのでした。

「そういえばアンケートには多くの方が卒業証書をもらっていないと書いてあった」と鳥取敬愛高校社会部の担当教師、小山富美男さんは思い出しました。「当時の全員分の卒業証書を作って卒業式をやったらどうですか?」と先輩を取材した一人が言います。

激動の時代に叶わなかった卒業式…。

後輩たちは先輩たちに取材した情報をもとに研究論文をまとめます。原稿を読んだ教師は、「過去を振り返ってみて、先輩たちに同情することだけの文章になっているが、さらに戦後の人生を生き抜いた先輩たちの生き様から自分たちは将来どう生きなければならないのかを書くべきではないのか?」と言われて、研究論文は、個々の証言や現地調査などをまとめて再構築することになります。そして180ページにおよぶ研究論文「61年前の青春を訪ねて」が完成し、全国学芸科学コンクールで金賞を受賞したのです。

しかし、教師にとっても生徒にとっても大きな心残りがあったのです。先輩たちに卒業証書を渡してあげたい…ということでした。68年越しの卒業式…。

鳥取敬愛高校の校長となった小山富美男さんは、抱えてきた思いを形にしようと考えていました。学徒動員された先輩たちの卒業式を行うことでした。

「学徒動員ではあるが、動員を受け入れた高校としての責任もある」として「昭和20年3月卒業生の卒業式」を行うことを決意します。

「卒業式は嬉しい」という声があるものの35人の方々から出席の返事が届いた一方で、欠席者は100名以上と多く、なかには返事のない方々もいました。そればかりではなく「今更卒業証書不要です」「もっと早いほうが良かったです」「認知症でほぼ寝たきりの状態です(代筆)」という返事も返ってきました。

「何故、自分たちが学徒動員という過酷な体験をしなければならなかったのか?動員によって学校で十分な教育も受けられず、戦後苦労を強いられた…」など学校に対して複雑な思いを持つ卒業生は少なくないようです。

「嬉しいという気持ちはなかった。なんで今頃になって?という気持ちが強かった」と言うのは、当時、裕福な家に6人兄弟の長女として生まれた木村富枝さんです。兄たちが次々に戦地に出征していき、ついに自分が親兄弟を守る立場になった時に学徒動員の命令が下った。学徒動員を拒むことはできなかった。「とにかく学校の言いなりにならないと生きていけない時代でした。反発なんてできませんでした」と言い、今回の卒業式への誘いにも抵抗があったのですが、”負の歴史に向き合い、それを後世に伝えたい”という高校の思いや姿勢を素直に受け入れて卒業式に出席することにしたのです。

木村さんは戦後、小学校の助教諭として働きましたが、辛く苦しい戦時中の話を自分の子供たちにさえも話すことがなかったそうです。しかし、今回の卒業式出席を機に「これからは、あの体験を話し伝えることで、私が80年間苦しさに屈せずに大きく手を振って歩いてきたんだ、生きてきたんだという思いを卒業式のあとに家族に伝えてやろうと思っています」と、笑いながら話すのです。

卒業式は平成25年10月3日(先輩たちが学徒動員に出発した日です)に執り行われました。残念ながら出席できたのは30人。誰もが84歳を越えています。8年前にインタビューに答えて「卒業証書が欲しい」と言っていた先輩の有本節子さんも2011年に故人となっており、出席できませんでした。

卒業生代表として答辞を読んだ木村富枝(85歳)は、当時を振り返りながら「こんな毎日の生活で自分の生活を失ってしまうのか?国のためこんなに自分を犠牲にしなければならないのか?と考えると残念な気持ちと葛藤の連続で悩みました。もっと勉強したい、という気持ちが日々強くなっていました。二度とない青春時代をしっかりと学び、しっかりと遊び、しっかりと生きて、自分の可能性を信じて生活してください」と語りました。

辛く苦しい思いというのは語りたがらないものです。ましてや戦時中の”自分の意思がない強制的な経験談”など恥として語りたいわけがありません。正しい歴史認識のための貴重な生き証言を聞ける語り部たちが続々とこの世から消えていくことは、恥知らずにも嘘で身を固めた人間の歴史のみが生き残っていくということにつながるのかもしれません。