僕が出版社に勤めていた時、いくつかの雑誌や新聞の編集部を転々としましたが、記事執筆に関しては社内でも最低レベルでした。ある雑誌編集部に所属した時には編集長から「お前の文章は小学生以下だ。小説ばかり読んでいるからビジネス記事が書けないのだ。有名なビジネス雑誌の記事を読んでよく勉強しろ」とよく言われました。小説は芸術であるから必ずしも整合性がなくてもいいが、ビジネス記事は確実に整合性が求められるからです。

同僚たちは、指定された有名なビジネス雑誌の記事を読んで、理解し、自分の技術力に上手に取り込んでいたのですが、僕はその雑誌を読んでも少しも勉強になりませんでした。要はビジネス記事を書く事ができなかったのです。結果的には文章が下手なのかもしれません。

僕がよくやってしまったのが「この商品は素晴らしい。しかし欠点がある。市場ではそれが問題になっている。でも素晴らしい商品だ」という”持ち上げて落として、また持ち上げる(褒め、貶す、また褒める)”というものでした。記事を書く目的が「広告出稿」にあったために、商品に問題があっても、最後は”素晴らしい商品”であると絶賛しなければならなかったのですが、記事としては”問題がある”というくだりがあった方が記事として面白くなると考えたのですね。

同僚たちは「苦労の末に完成した商品を褒めちぎる」というパターン作りが上手く出来ていたので、”褒め、貶す、また褒める”というパターンに陥ることがありません。たとえ陥ったとしても彼らには”つなぎ”が自然で全体的に意味の通った文章に仕上げられたでしょう。僕にはそれができなかったのです。言葉や表現を知らないというのも大きな要因でした。

僕はビジネス記事によく使用される言葉や表現が嫌いでした。たとえば「思わず膝を打った」「天王山だ」「剣ヶ峰となる」といった大仰な表現に併せて、「といえる」「を導き出した」「という具合だ」「と口にする」などの上から目線な表現にも虫酸が走るのです。僕はこの雑誌の記事の良さがいまだに理解できていませんから、多分今でも文章が下手なのだと思います。

ビジネス記事は事実に基づいて書かなくてはならないのですが、事実に反することがあったとしても、広告のためには商品や企業を貶してはいけないのが原則です。多少は事実に反する匂いをほんのりと嗅がしてもいいのですが、最後にはきっちりとした整合性をとらなければならないのがビジネス記事なのです。

自分史を書く場合にもある程度の整合性が求められると思います。自分史は事実に基づいて書かれるからですね。しかし、ビジネス記事のようなイヤラシイ表現だけはしなくて良いので安心です。