◆今回は安全靴の歴史です。安全靴を見たことがある方ならば「工事現場用の黒くて重くてダサい靴」という印象があるでしょう。確かに昔から工事現場や工場などでは、作業者の足を守るためになくてはならない必須アイテムですが、「黒くて重いダサイ靴」というイメージはかなり払拭されつつあります。

◆初期の安全靴には、強化された鉄板を折り曲げて半ドーム型にしたものが足先に入っていました。これで重量のある落下物などかを守るのですが、鉄板そのものが重いので靴全体が重くなり、安全靴は重いというイメージが定着してしまいました。

◆現在では足指を守る先芯に強靭な樹脂製のものが登場して、靴重量は信じられないほどに軽くなっています。さらに通勤にも対応できる柔らかい皮革を採用した高級品や世界的なサッカーシューズブランドのスニーカー型の安全靴も登場しているのです。


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■今回は安全靴の歴史です。僕は安全靴の愛用者です。普段でも定評のあるミドリ安全の安全靴を履いています。柔らかな革製の靴の先芯は樹脂製ですから普通の通勤靴より軽く感じます。日々、安全靴に接していると、日本における安全靴の始まりとは何だろう? と考えることがあります。

■そもそも靴といえば西洋のものと思いがちですが、日本にも古代より靴らしきモノがありました。古代の靴は「沓」「履」(両方共にクツと読みます)と呼ばれ、身分の高い人に愛用されました。平安時代の武士は戦場でも革靴(皮沓)を履いていたようですが、材料が調達しにくく、蒸れる沓は廃れ、材料が入手しやすく、高温多湿な国土に合った履物へと変遷していくのです。

「和製安全靴のルーツは下駄?皮沓?」

■江戸時代までの日本の履物は基本的に「下駄」「草履」「草鞋(わらじ)」の3種類でした。木の板に鼻緒を付けて履けるようにした下駄。主に植物などの柔らかい素材を使用した草履。藁で編まれ、足から履物が外れないように長い緒を足首で結ぶ草鞋。それぞれは用途に応じて履き分けられていました。

■江戸時代の一般市民の主流の履物は草履でした。軽く通気性が良い草履は町履きに最適でした。草鞋は緒を足首に結びつけることから足への密着度が高く、山歩きや長距離歩行の際に使用されました。もうひとつは下駄です。高級なものは桐製のような軽いものはあるものの、ほとんどの下駄は樫や朴などの硬い木で出来ていて、靴底と踵に当たる2本の歯は、地面から数センチ高くなっています。これで地面の危険物を回避できるのです。つまり踏み抜き防止というわけですが、日本における安全靴のルーツという感じですね。

■下駄のルーツは足駄(アシダ)です。古代、足の下に履く物を「アシシタ」と呼んでいましたが、それがなまってアシダと呼ぶようになりました。

■日本では弥生時代以降に稲作農業が中心となると、様々な変わった農業用の履物が考案されました。総称して田下駄と言いますが、「枠大型田下駄」「台付田下駄」「板型田下駄」「株切り下駄」「踏鍬下駄」「足桶」などたくさんのバリエーションがあります。それぞれ地面の踏み均しや、冠水時の作業に使われたり、刈り取った後の古い稲株を切ったり、水中での作業に使うなど、用途によって考案されていました。

■安全靴のような使われ方をしたものに職人たちが履いた「トコゲタ」があります。これはタタラ(製鉄小屋)で小屋の熱い床で火傷しないように履かれていた杉や檜製の下駄です。

■一方、あまり履かれることがなかった皮沓(カワグツ)にもアイヌの鮭皮沓(チェップケリ)や江戸末期の足袋沓(タビグツ)など耐滑を考えたものがあります。鮭皮靴は背びれの部分が靴底に位置し滑り止めになっていますし、足袋沓の靴底には滑り止めの鉄の鋲が打ってありました。

「諭吉も靴に驚いた」

■幕末の開国と同時に皮靴が流入してきます。坂本龍馬のブーツの写真が有名ですね。福沢諭吉の「福翁自伝」には自身が安政6年(万延元年)に咸臨丸でアメリカに渡ったときのことが書かれています。そこには「咸臨丸の日本人水夫たちはみな草履ばきで、サンフランシスコに到着した際には海水が染み込んでボロボロでみすぼらしかったので、艦長が長靴を買ってくれて格好がついた」ということが書かれています。ちなみに同書には、勝海舟も船長として同乗していましたが、船酔いで役たたずだったとも書かれています。

■さらにサンフランシスコでは高価な絨毯が敷かれた上を土足で歩く西洋人に驚いたと書いています。ここで重要なのは「土足で建物の中を歩く」ということです。日本では古代から靴らしきものがあっても、靴を履いたまま建物の中を歩くということをしませんでした。

■その経験が活かされたのか文久元年には「軍艦担当者は戦中に限って皮靴を履いてもいい」というお触れが出ています。

■それから幕末の動乱を経て明治時代になると急速に西洋文化が取り入れられます。皮靴を履く人も増えてきますが、履きなれないものを履くので足にマメができて大変な騒ぎになりました。

■文明開化の拠点となったのが東京の築地居留地でした。街には各国の外交官が行き交い、協会が建ち、ミッションスクールも誕生しました。しだいに周囲には西洋の生活用品を売る日本人も増えていきます。

■明治3年(1870)3月15日、築地の隣町の入船に西洋靴の製造工場ができます。大村益次郎に奨められた佐倉藩士の西村勝三という人が創設したのです。この3月15日が「靴の記念日」になりました。最初に作られたのは軍靴です。ちなみに明治初期の日本軍の軍靴は牛革に油を染み込ませた茶利革(チャリカワ)を用い、手縫いで作られていました。チャリカワというのは海外技術者チャールス・ヘンニクルの名前から命名されたものです。

■軍靴には安全靴と共通する何かがありそうですが、申し訳ないですが現時点では何も資料がないのでわかりません。次回は近代における安全靴に関する話をいたします。