folie


オリジナルフランス語タイトルは「A' la folie pas du tout」、イタリア語タイトルは「M'Ama Non M'Ama」(邦題と同じ)


アメリのオードレイ・トトウ扮するアンジェリーク、彼女の恋の物語なのだけど、彼女から見たストーリーと、同じ現実の姿のストーリーの差が面白い。


要するに片思い、なのに恐ろしくも自分に都合の良く相思相愛だと1人思い込む。最初のストーリーで「待ち合わせに彼、来てくれなくて、可哀想」と思っていたのが「あー、そういうことだったのか。」と後で分る。

こうして客観的に見ると、思い込みというのは、したくないものだし、この映画の場合は、暴走しているから、どんなにオードレイが可愛く演じても、異常は異常、犯罪は犯罪、なのだけど、最終的に「そうは言っても誰でも、多かれ少なかれ、思い込みや錯覚ってあるんじゃないか?」という気持ちになった。

恋をしたら客観的に物が見えなくなって、というのは分りやすい例だけど、すべてにおいて、私たちは自分の思いたいように物事を見ているのではないか


例えば、神を信じる人には、神は存在するし、信じない人には存在しない。(本当は存在していても?)
「嫌なことがあった。あいつのせいだ。あのハプニングのせいだ。この環境のせいだ。」と思うことによって、自分の落ち込む弁解にしたり、人の愚痴や悪口を言う(思う)ことによって、自分を正当化したり。
逆に物事を肯定的、好意的に考えることによって、自分を元気づけたり(行き過ぎるとアンジェリークみたいになってしまうけど)。


それじゃあ、客観的って?というと「自分の独断ではなく、皆に合わせる」というのではなく、感情にも状況や都合(理性)にも左右されない視点からの見方、ではないか、と思う。
(私の印象では、イタリア人は感情の起伏が激しく、本人がその感情に左右されがち、なのに対して、日本人は理性的なのだけど、その理性にしばられる、というか人生を勝ちとか負けとか、計算に走る傾向があると思う。)


人は感情抜きには生きられないけど、同時に「客観的な目」(感情をコントロールする理性ではなくて、絶対的な視点、とでもいうか)からも常に物事を見ていきたいと。

同じ人や物や出来事への意見や感想も人によって全く違う。

事実や現実は避けられなくて、(世の中には目を覆う痛ましい出来事も多発しているし)個人の思い通りにいかない現実も多いけど、それをどう見るか、とらえるかは、自分自身次第なのだから。