見て見ぬふり?

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地下鉄の中で、泥棒(10代のジプシーの女の子たち)が日本人観光客をねらって近づいていたので

「後ろにいるの、泥棒ですよ。気をつけてください。」と思わず、声をかけた。

「え?泥棒?」ということになり、皆、警戒してバッグをおさえたり、他の場所に移動しはじめたので、泥棒たちもあきらめて、別の車両に移っていった。


この話を日本人の友人にしたら

「私の知っている人で、同じことしたら、泥棒に顔にツバひっかけられたんだって。邪魔するなって。」という。


親切に思ってやってることが、こんな結果になるなんて。


バングラデシュ人の友人が、泥棒がスッたアメリカ人の財布を拾ったという。もちろん現金は抜き取られていたけど、クレジットカードや身分証明書などが入っていて、

「落とした本人はどんなに今ごろショックだろう、警察に届けようか?アメリカ大使館にとどけようか?」と言う。

警察にとどけても「おまえが泥棒したんじゃないか?」って言われたらたまったものじゃない。大使館に届けて自分の名前や住所を届けるのも嫌だ。(別に不法滞在しているわけではないけど、何かとそういう尋問は外国人にはつきものなのだ)

「捨ててしまったほうがいいんだろうか?でも、なくした人の気持ちを考えると、どこかに届けたいとも思うし。」と。


親切が裏目に出るので「何もしないほうがまし」となってしまうから、誰もが見ても見ぬふりをするようになり、不正もまかり通るようになってしまうというのに。


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天災から思う死

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ジャワ島の地震、とてもショックに思います。
多くの人の命が一瞬にして、自然によって、消えてしまうことに。
それでも、遠くの私たちはいつも通りの日々を続け、災害もニュースの一つとして流れていくことに。


インドに「胃はパンをほしがり、髪は髪飾りをほしがる」という諺があるそうです。
飢えている人もいるのに、必要のない贅沢品を求める人もいる、という意味なのでしょうけど、地球全体でも同じことがおきていて、その差はますます大きくなってきているとか。
どんなに着飾っても、食べ物がなければ、人は死んでしまう。

どんどんゆがんでいく人の感覚、地球上のバランス、.....物は使い捨てになり、人生に勝ったとか負けたとか、なんて愚かな発想ではないでしょうか?
誰だって、一瞬にして、死んでしまうかもしれないというのに。


被害者のご冥福と現地の人たちの心(どんな心境でしょう?はかりしれません)の平和を願ってやみません。

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犬のいるアパート

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スパニッシュ・アパートメント の散らかりようもすごかったけど、私が体験した最悪の不潔状況はイタリア人女の子3人と一緒に住んでいたときのこと。


女の子の一人が犬を飼いだした。ある日、帰ってくると小犬が家にいて「かわいいでしょ?保健所から引き取ってきたの。足が悪いのよ、かわいそうに。」と言う。

確かにかわいい犬だったのだけど、これがまた、吠える。うるさい。夜中も吠える。

毎日会っていて、餌をやるとおとなしくなるのに、毎日私のことを忘れるのか、帰宅するたびに吠える。しばらくすると「あ、あいつだった」と思うのか泣き止むのだけど、翌日また吠える。馬鹿か、こいつは、と思った。


この馬鹿犬が部屋中に糞をしまくる。玄関の広間も、キッチンも、ベランダも。

飼いだした女の子は大の方にも小の方にも上に新聞紙を置くだけで、始末するのは翌日とかそれ以降。使ったお鍋やお皿もその日には洗わない女の子だった。


別に彼女の家ではなく、大家も「この家はペット禁止」と言ったらしいのだけど、「2-3ヶ月後に出て行くから」と答えたらしく、私が大家に言っても「出て行くって言ってるから待ってくれ。」と言われる始末。


イタリア人の2-3ヶ月がいつになることやら、とも思ったし、こっちは毎日毎日が臭くてうるさくて、限界なのに、と思っていたら、ルームメイトを探しているという人に出会い、そこを出ることができた。


「犬、飼っていい?」という事前の相談もなしにいきない犬がいるのもびっくりだけど、もしされたら「いいよ」と言っていたかもしれない。犬は好きだし。でも、誰が糞だらけのアパートを想像するだろう?


でもイタリアの犬は鎖でつながれることもなく、家の中で自由に歩き回り、家族同様に思われて、幸福かも、と思った。

でも、こういう結果になることもあるようです。

関連過去記事 ペット問題




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スパニッシュ・アパートメント













スペイン、バスセロナのアパートに住む学生たち、スペイン人、イギリス人、ドイツ人、イタリア人、フランス人、ベルギー人たちの共同生活。


イギリス人女性「ど-して、私ばっかりいつもバスルーム掃除しなくちゃならないの?誰かやってよ。」とか
外国人同士で「スペイン人ってさあ、まったく...」とか言い合ったり、共同生活をした人なら「そうそう、あるある、わかるわかる。」と言いたくなるエピソード満載。


ちらかったリビングやら、皆の物でごちゃごちゃの冷蔵庫、人間関係もごちゃごちゃしていて、「私の体験ではここまでひどくないなー。」と思うシーンも、逆に「私はもっと散々なルームメートにもあったし、共同生活していると皆でこんなに仲良しってわけにもいかないし。」とも思うし。


その中で、スペイン人についてごちゃごちゃ言うルームメイトに

「君、何人のスペイン人と知り合ったの?」

「えーと、2人。」「それでスペイン人のこと、わかったような口聞かないでよ。」

というシーンがある。



私も自分の周りに起こったちょっとした出来事から「イタリア人って」とブログにも書いているので、イタリア人に読まれると「違うよ。」と言いたくなることも多いかもしれない、と思って、はっとした。

所詮、イタリア人って、とか日本人ってこうだ、という型にはまった見方をするのって、ナンセンスなことだし、自分だってそういうふうに見られるのは「は?」と思うことがある。


私が自分のブログで「イタリア人って」と書いているのは、日本人がイメージしているイタリア人の裏の顔に気がついたとき、「日本人って」と書くのは、日本にいると気がつかない日本人の特徴などに気が着いたとき、書いているので「イタリア人って、日本人って」とステレオタイプな見方はしていないつもりなのだけど、本当は「なに人」ということも無関係に誰に対してもありたいものです。


映画のアパート、映画だから本当に楽しそうなのだけど、いざ、ああいう中に自分が住めるか、と思うと......もし私が20歳前後だったらできたでしょうか?うーん、無理かも。

キッチン、バスルームだけでなく、部屋まで誰かと共同というのは.....。あの中に日本人がいたら、また大変なことになることだろう、と想像します。

喫煙者で、家が不潔でも平気で、自己主張が強いけど、誰とでも人付き合いもよく、いいかげんな人だったら、楽しく過ごせるかもしれません。(几帳面な人だったら気が狂うでしょう。)



残念なことにイタリア語吹き替えで見たので、字幕付きでオリジナル言語で見ると、いろんな言語が飛び交い、さらに面白い映画だと思います。

日本では馬鹿でちゃらちゃらした大学生も多いし、大学出といっても、どこの大学かというのが重視されるくらいだけど、イタリアでは「大学卒」というのはかなり重視される。実際優秀な人は多い。(どこの大学というのは重視されない。専門の学部は大切なポイント)という話を以前にもちょっと書いたことがある。

で、「君は大学を出ているのに、店の店員なんかして、イタリアにはいい職がないから、残念だ。」とよく言われる。
「店の店員ってそんなに低く見られるの?」と聞くと、そうなのだ。
イタリアには職種に4段階のレベルがあって、店の店員は最低賃金のレベルなのだ。(実際支払われるのはそれよりも更に低い)

確かに現在の仕事は望んでやっているわけではないし、お給料も低いけど、いろんな国の人に対応している自分に「誰でもできる仕事じゃないわ」と思うこともあるし、仕事を探した当時はイタリア語も今より片言レベルだったし、それでも観光地ローマだから観光客相手の仕事が見つかったことはラッキーだと思っている。これがイタリアの片田舎だったらそうはいかないだろうし、フランスだったらかなりペラペラじゃないと仕事なんかないんじゃないか、と想像してみる。
そういうわけで、私は「販売員の仕事」が低く見られることにちょっと憤慨することがある。日本で販売員をしている人だって、扱ってる物の専門の知識を勉強したり、営業についてサービスについて、イタリア人からは想像もできない日々の努力をしているはずで、日本人同士では「最低レベルの仕事」という観念はないと思う。

イタリア人で大学卒の人は店の店員とか、レストランのバーテン、ウェイトレス、スーパーで働くなんて仕事はしない。自分の勉強した専門の仕事につく。といっても、誰でも希望の仕事が見つかるわけではなく、そうじゃない人はイタリアの不満を愚痴りながら、希望の仕事につけるのを待っている。(無職やパートタイムで)

だから、イタリア人がやらない仕事を外国人がやるようになり、その数が増えている。
イタリア人に「日本って、マナー教室みたいなところがあって、フォークとナイフの使い方なんかにお金払って行く人がいるんだね。馬鹿馬鹿しい。日本人って、何でも形から入る、フォーマル第一主義だよね。そのうえ、そこに付け込んでビジネスにしようという発想がね、おかしいよ。」と言われた。

確かにそれも、そうなのだけど、イタリア人も「大学卒」にこだわって「そんな仕事やってられるか」と言っているから「仕事がない、お金がない」と始終愚痴っているんじゃないかとも思う。
そういうレッテルなしで生きていきたいし、人を見る目もそうありたいものです。

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仕事の責任

ソラマメ

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fave


5月はソラマメの季節。イタリアのソラマメって大きい。(わざとらしくライターを置いて写真とってみました。)

5月1日にはソラマメとやぎのチーズ(ペコリーノ)を食べるのがローマの風習だとか。他の地域ではどうなのでしょう。

初めてのとき、へーえ、と思ったのが、これ、生で食べるんです。皮をむくとマメが3つ4つ出てくるのをそのまま。
これがまた新鮮でおいしい。亜鉛が多く含まれているとか。人によっては、ナマで食べるとお腹をこわす人もいるらしいのですが。

ソラマメ、イタリア語では単数形はFava、でも1粒だけってことはまずないから、普通複数形、Fave(ファーベ)と言います。

アメリカンファッション?

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イタリアは日ごとに暑くなってきて、今日の気温、天気予報によると12-30。朝晩は肌寒いけど、日中は真夏のように暑く日差しも強くなりました。

街を出歩く観光客もTシャツやタンクトップが多く、たまに厚着しているのはイタリア人だけです。


ひざの見える短パンをはいた男性と、同じくひざの見えるキュロットスカート(と今でも言います?)をはいた女性のカップルが店に来ました。どちらも50代くらいでしょうか、いかにも「アメリカ人」といった感じ。


「イタリアにはこんな格好の人っていないね。いかにもアメリカだね。」というと、同僚も同感。「イタリア人は海に行くときくらいしか男は短パンはかないし、女性のファッションの基本はセクシーさだからね。キュロットスカートはNGでしょう。」

そういえば、日本でも、男性の短パンや女性のキュロットスカートで街を歩いている人は見かけませんね。(少なくとも最近は)

スペイン料理のお店に行ったら、ジプシーキングスやフラメンコの曲が流れ、壁にも闘牛の絵があったり、と「あー、スペインだ。」「スペインに行きたくなってきた」という気にさせる。


それで、気がついたのだけど、イタリアのイタリアンレストランって、音楽がない。

人々の話し声だけなのだ。あるとこは音楽があるのかもしれないけど、今まで気がついたことがなかった。


日本食レストランには琴の音楽が流れていたり、中華は中国の民謡とか(ないところも多いかも)、インド料理やこのあいだのケバブの店 にも、当地の音楽が流れていて雰囲気を出していたりする。


イタリアなんだからわざわざ「あー、イタリアだあ」という曲なんか必要ないのかもしれないし、昔からレストランに音楽、というものはない習慣だったのかもしれない。


日本のイタリアンレストランにはイタリアの曲が流れていたり、フレンチにはフランスの曲が流れていたりしていたかなあ。気にしたことがなかったので、覚えていない。


以前働いていたお店(土産品店)は、バックミュージックをガンガンな大音量でかけていた。それは景気良く聞こえるためなのか、そういうお店って、イタリアには多い。でも、働いている側にとっては、かなりのストレスだった。同じ曲を毎日聞く、ということも。


他国料理のお店で、当地の音楽を聞いて、その雰囲気を味わえるのは客としては楽しいけど、働いている人たちにとっては、毎日同じ曲ばかりで、ストレスになってるかもしれない、と、ふと思った。


それとも日本人は飽きやすい民族だけど、イタリア人は同じ物ばかり食べても飽きないくらいだから、毎日同じ音楽を聞いても、飽きないのかも。

campo dei fiori


「地球の歩き方」には下記(青文字)のように紹介されている。


カンポ・デイ・フィオーリ(=花の野)の名前通り、かつては花が一面に咲く野原だったという。その後15世紀に教皇庁がヴァティカンに移ると、巡礼者の通り道となり、急速に発展していった。

今なお古い家並みに囲まれ、独特の雰囲気のある広場で、日曜祝日を除く毎日午前中ににぎやかな市=メルカートの立つことでも有名だ。

華やかな色の花、色鮮やかな野菜、肉、魚などの屋台がところ狭しと並び、売る人、買う人の活気があるれている。

にぎやかな市場もかつては処刑場で、広場の中央には、1600年2月17日に異端の罪でここで火あぶりの刑に処せられた哲学者のジョルダーノ・ブルーノの像(1887年建立)がある。


カンポ・デイ・フィオーリ広場は、中心地にある市場で、市場なら、あちこちにあるから、わざわざカンポ・デイ・フィオーリまで足を運ぶこともないのだけど、あの近辺は、アンティーク家具屋があったり、庶民的なパン屋やピザ屋があったり、高級品ではないけどちょっと洒落たお店もあったり、ぶらぶら散歩するのに楽しい場所としか私は位置付けてなかった。


広場にある像など、気にしたこともなかったのだけど、須賀敦子著書の「ユルスナールの靴」に、カンポ・デイ・フィオーリ広場とそこで処刑された、ジョルダーノ・ブルーノについての記述があったので、はっとした。


下記「ユルスナールの靴」より引用 (青文字


修道士でありながら、(中世以来、それまでのプラトン主義に代って教会が奉じるところとなった)アリストテレス主義を公然と批判したり、コペルニクスの地動説を支持するかと思えば、自然哲学について熱心に語るジョルダーノ・ブルーノ.......

ある日、状況は急転した。直接の理由がなんであったのか、ブルーノを家族の一員のようにもてなしていた貴族が、利己的な理由から彼を裏切って、異端審問所に告発したのだった。捕らえられ、ローマに護送されたブルーノは、数年のあいだ暗い地下牢につながれ、むごたらしい拷問に耐えながらも、自説をひるがえそうとはしない。

彼が牢獄を出ることができたのは、護衛されてテヴェレを渡り、ほど近いカンポ・デイ・フィオーリ広場の刑場に送られた日だった。神を信じ、教会を信じてはいても、その不当な圧力には屈しようとしないブルーノの僧衣に火が音をたてて這いのぼる。......

火あぶりの刑は、施政者側にとっては「見せしめ」がおもな目的であったのは確実だ。.....


こんな人たちの苦悩を経て、現代科学は生まれたのだ。それなのに、私たちは無知に明け暮れ、まるですべてを自分たちが発明したような顔をして、新幹線なんかに乗ったり、やれコンピュータだ宇宙だといばっている。なんというまぬけだろう。


ブルーノの処刑は、ガリレオが異端審問を受け「それでも地球は動いている」言う32年前のことだ。今では常識の地動説を言い出した人は「異端=投獄=拷問=火あぶりの刑」という時代に生きていたのだ。カンポ・デイ・フィオーリ広場に行ったら、ジョルダーノ・ブルーノの像を見て、自説をまげるよりも、火あぶりの刑を選んだ彼の意志に思いを馳せてみてください。

家賃急騰

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1993年から2005までの12年間で、家賃はイタリアで平均して116%上がっているという。上昇率が116%なので、2倍以上になっているということ。またローマは120%だとか。


ローマの事情でいうと、部屋探しの情報誌で、最低のランクは、5年前でも500,000リラ(約260ユーロ、当時の円換算で約3万円)以下でシングルの部屋が見つかったし、同じ部屋にベッド2つ、2人で住む場合はその半額でよかったのだから....(よい時代だった)10年以上前は日本円で2万円くらいでも広いワンルームが借りれたのだ。


今はワンルームの相場は400-450ユーロ(現在の換算で58,000-65,000円)前後。(光熱費が込みだったり別だったり)以前の相場の金額では部屋を誰かと共同で使い、更にキッチン、バスはもっと大勢で使う、ということになる。


リラ時代とユーロ時代にイタリアを訪れた人は皆、実感していることだと思うけど、家賃だけでなく、物価すべてが上がっている。円に換算するとさらにまた上がっているし。そのうえ、お給料はリラ時代のまま。


イタリアの平均所得はヨーロッパではギリシャと最下位を競っているらしいのだけど、物価はギリシャが断然安いので、結果的にイタリア人が一番経済的に貧しいらしい。(無職の人も多いし)

イタリアの生活はけっこう厳しいのが現実です。