2009年5月20日
波濤 31
山本伸一が、予見していたように、さらに厳しい現実が
日本の海運業界を襲った。
ー九八五年(昭和六十年)九月のG5(先進五カ国蔵相・
中央銀行総裁会議)で、ドル高修正に向けて協調介入
をとっていくことが合意された。
いわゆる「プラザ合意」である。
そして、一ドル=二百四十円前後から、二年後には、
百二十円になるという、急速な円高となっていったのだ。
海運会社は、賃金の高い日本人船員の削減を進め、
七五年(同五十年)当時は五万五千人近かった日本人
船員が、八六年(同六十一年)には、二万四千人ほどに
なっていった。
それでも、ほとんどの海運会社の財政は、危機的な
状況であった。
会社側と組合は協議を重ね、八七年(同六十二年)
の四月から、二年間にわたる「特別退職制度」を設け、
退職金の加算や退職後の雇用対策を進めた。
その結果、八九年(平成元年)には、船員数は一万一千人
となり、八六年の半数を下回った。
『波濤会』のメンバーのなかでも、陸上勤務に変わったり、
転職を余儀なくされた人もいた。
海運業界の前途は、暗澹としていた。
メンバーは思った。
*不況が続き、船員は削減されても、日本は海に囲まれた
海洋国だ。日本人の船員が全くいなくなるわけではない。
その同じ船員たちに、なんらかのかたちで、勇気と誇りを
与えることはできないものか・・・・*
仏法者は、社会の松明である。
烈風の暗夜にこそ、使命と情熱の火を燃え上がらせ、
周囲に希望の光を放ちゆく存在となるのだ。
彼らの間からあがったのが、『波濤会』のメンバーに
よる写真展の開催であった。
実は、学会の週刊写真誌『聖教グラフ』では、八六年に
四十回にわたって、「波濤を越えて」と題する、
メンバーが撮影したカラー写真と紀行文からなる連載を
続けてきた。
技能的には未熟でも、なかなか行けない場所や、
航海中でなければ出合えない珍しい光景が撮影され、
迫力に富み、好評を博していたのである。