ロッサーナ
口説きスキルを教えてくれる唯一人のNPC、ロッサーナ。
イスタンブールにいる彼女についての身辺調査メモ。
例によって個人的な調査メモなので、内容の正確性については保証しない。
【ロッサーナ】 (1500?-1558)
本名アレクサンドラ・リソフスカ Aleksandra Lisowska (Александра Лисовска)。
オスマントルコの第10代スルタン、スレイマン1世 (1494-1566、在位1520-1566) の妃。
ポーランド領ロハティン Rohatyn (現ウクライナ領ロガティン Рогатин)のルテニア人司祭の娘として生まれる。
本名はアナスタシアだったとする説もあるが、後世に彼女を題材にした演劇などの影響もあると思われる。
彼女のことはロッサーナよりロクセラーナ Roxelana やロクソラーナ Roxolana と呼ばれることの方が多いが、
いづれの場合も単に「ロシア女」という意味で彼女につけられたあだ名である。
ルテニア人は自身をルシンと呼んでロシア人と区別したが、民族的にも言語的にも非常に近いことから、
スラブ系民族以外、特に遠方のトルコ人から見れば十把一絡げで「ロシア人」扱いだった。
家は貧しかったが、アレクサンドラは聡明で知性に溢れ、性格は明るく愛嬌もあり、好かれていた。
容姿は背が低く小柄で、目つきがややきつかったため、とりわけ美人というほどではなかったようだが、
非常に魅力的に感じられる存在だったという。
ロハティンは黒海北岸からポーランド方面へ通じる主要街道上に位置しているため、
オスマントルコの属国となったクリミア半島のタタール人のクリム=ハン国がポーランド王国に侵攻する際、
街は軍勢に蹂躙され、男は殺され女子供は陵辱・拉致され、まだ幼かった彼女も捕えられる。
奴隷商人の手に渡った彼女は、性奴としてカッファの市場で全裸で競売にかけられ、売られてしまった。
(余談: この頃カッファ太守在任中だったのがスレイマン1世)
やがて彼女はオスマントルコの大宰相イブラヒム・パシャ (1493-1536) に買い取られてイスタンブールに移る。
与えられたトルコ名はヒュッレム (陽気な/愛嬌のある者、の意)。
イブラヒム・パシャの許で、彼女はトルコ語・アラビア語の読み書き・礼儀作法・詩・歌舞音曲、その他、
貴族に仕える侍女としての教養をみっちりと身につけさせられたと思われる。
ハーレムに相応しい女性に育てるためのこの養成期間は、長ければ7~8年余にも及んでいたらしい。
ただ、彼女の場合、初めからスルタンに献上するつもりで育てられていたかどうかは定かではない。
1520年、スレイマン1世がスルタンに即位すると、彼女はイブラヒム・パシャからスレイマン1世に献上され、
宮廷のハーレムに入る。
聡明で才気溢れる彼女は、巧みな詩と持ち前の魅力でたちどころにスレイマン1世の心を奪い、
ついには寵愛を受けるようになり、ハセキ(寵姫)の尊称付きでハセキ・ヒュッレムと呼ばれる身分となる。
ひとたび寵愛を受けると、彼女は次第に独占欲を顕にした行動を取るようになっていった。
当時既にスレイマン1世にはモンテネグロ人のカドゥン(夫人)、マヒデヴラン Mahidevran との間に
長男ムスタファがいたが、ヒュッレムがスレイマン1世を独占してからはマヒデヴランに子は生まれず、
一方ヒュッレムは次々と4男(メフメド、セリム、バヤジッド、ジャハンギール)1女(ミフリマー)を産んだ。
この妊娠合戦の結果や、ヒュッレムのハーレム内工作でマヒデヴランの立場は悪化し、息子ムスタファの
マニサ太守赴任に付き添う形でハーレムを去る。
1534年、スレイマン1世の母である皇太后ハフサ・ハトゥンが亡くなると、必然的にヒュッレムが
ハーレムで最も発言力を持つ存在となった。
ハフサ・ハトゥンはクリム=ハンのメングリ・ギレイの娘として、属国化したクリム=ハン国から
人質奴隷としてハーレム入りしていたが、スレイマン1世の父セリム1世の寵愛を得て、
スレイマン1世の他に娘を3人産んだ。
この娘の1人を大宰相イブラヒム・パシャに娶らせていたため、スレイマン1世とイブラヒム・パシャは
主従関係だけでなく義兄弟の関係にあり、またほぼ同い齢であることから親友のような関係でもあった。
一説では、イブラヒム・パシャがイケメンであったことから、更に特別な関係もあった、ともいう。
その尋常ならざる男同士の強い信頼関係への女としての嫉妬もあり、また、マニサ赴任以来、
日に日に頭角を現していた長子ムスタファを差し置いて自分の凡庸な息子にスルタン位を継がせるには、
いづれ大宰相イブラヒム・パシャが邪魔者になると考えたヒュッレムは一計を案じた。
ハーレム内にイブラヒム・パシャを陥れる噂を流してスレイマン1世に不審を抱かせ、また偶然時期が
重なった敗戦の責まで負わせた。
1536年、ついにスレイマン1世はイブラヒム・パシャの首を刎ねる。
ハーレムのあった場所はビザンチン帝国時代からの旧宮殿で、スレイマン1世は普段はハーレムとは別の、
ビザンチン滅亡後に新たに建設した新宮殿(現トプカプ宮殿)にいたが、1541年、旧宮殿が火災に遭ったことを
口実に、ヒュッレムも新宮殿に移って常にスレイマン1世に寄り添って暮らすようになった。
以後、彼女は一層夫のすることに口を挿むようになる。
そしてついにイスラム法的に正式にスレイマン1世と結婚して妃となり、ヒュッレム・スルタンと呼ばれるようになる。
1000人に近い女たちのハーレムの中にあって、唯一の正妻として夫を独占することに成功した訳である。
(当時、スルタンが特定の女と正式に婚姻関係を結ぶことは絶えて久しかったため、異例のこと)
1544年、娘ミフリマーの婿ルステム・パシャを宰相に迎える。
1553年、ルステム・パシャと謀ってムスタファに謀反の濡れ衣を着せ、ムスタファとその息子を処刑。
これで、ヒュッレムの願いは全て一応の達成をみた。
やってきたことは凄まじい。
が、彼女としては、自分を愛してくれる人を自分だけのものにしたい、そして、自分の子供たちを
約束された死から守ってやりたい、という単純な想い、初めはただそれだけだったように思われる。
1558年、イスタンブールでヒュッレム薨去。
彼女の4人の息子のうち期待されていたメフメドは夭折。
ジャハンギールは生まれつき身体に障害があったため、イスラム法で皇位の継承を禁じられていたが、病弱でやがて死んだ。
そして、セリムとバヤジッド、怠惰で凡庸な2人が残った。
特にセリムは飲んだくれでアル中だったという。
彼女の死後、継承権を巡ってセリムとバヤジッドが軍勢を交え、帝国は一時内乱状態となる。
この兄弟喧嘩の結果、セリムがバヤジッドの首を刎ね、継承権を得た。
1559年、彼女の死の翌年のことであった。
ヒュッレムがムスタファの血筋を消すことに執着したのは、慣習から、ムスタファが即位した場合には、別腹である
自分の息子たちが全員殺されることになるからであった。
が、そのために、西欧にまで名が聞こえるほど有能なムスタファという人材を失ったオスマントルコの損失は
非常に大きかった。
1566年、スレイマン1世が崩御すると飲んだくれがセリム2世として即位したが、暗君の下で以後帝国は
没落の一途を辿り、スレイマン1世の最大版図を回復して隆盛を取り戻すことは二度となかった。
また、ヒュッレムが悪しき先例となり、ハーレムの女が政治に影響力を持つようになったため、
ハーレムに賄賂を贈ることでハーレム経由で間接的に政治が動かされてしまうようになった。
宮廷は腐敗し、政治は一層混乱していった。
ヒュッレムは、イスタンブールのスレイマニエ・モスクの敷地の中にある夫の廟の隣の少し小さな廟で、
夫に寄り添うように今も静かに眠っている。