平成5年6月9日、ご成婚のパレードに臨まれる皇太子ご夫妻。皇太子さまは「一生、全力でお守りします」という言葉を貫き続けられている=皇居・東庭


艶ネタ&バツ日記


昭和61年10月18日、東京・元赤坂の東宮御所では、スペインのエレナ王女を招いてレセプションが行われていた。まだ、立太子の礼の前で「浩宮徳仁(なるひと)さま」と呼ばれていた皇太子さまは、そこで小和田雅子さん、後の皇太子妃雅子さまと出会われた。当時、皇太子さま26歳、雅子さまは22歳。外務省幹部だった父親、小和田恒(ひさし)さん(80)のご令嬢として出席されていたのだ。

 日本のプリンスと、米ハーバード大学を卒業し外務省入りする才女。おふたりはまだこのとき、その後の運命を知られる術もなかった。緊張気味にあいさつされる雅子さまに、皇太子さまは穏やかに話をされ、会話は少しずつ弾んだ。

 「非常に強いというか、いい印象を受けました。まず、控えめでいらっしゃるんだけれども、自分の思っていることをはっきりとおっしゃって、それでいて、非常に聡明(そうめい)である」「お互いに心が通じ合うというような、そういう感じを強く持ちました」

 わずか2、3分程度の時間だったが、皇太子さまは、この際のことを、平成5年のご婚約会見で、こう振り返られている。雅子さまも「とても気さくで、かつすごく配慮のある方」と感じていたと、やはりご婚約会見で明かされている。


「皇太子さまが『外交官のすばらしい女性がいるんです』と、少し興奮気味に話されていたことを覚えています」

 音楽を通じて親交がある学習院OB管弦楽団の元副団長、鎌田勇氏(85)はこう語る。雅子さまの「強い印象」が、どれほどだったかがよく分かる。

 「年月のたつのは早いもので、結婚してからもう20年たつのかと思うと、とても感慨深い」

 今年2月の誕生日会見で、皇太子さまは、こう結婚生活を振り返られた。レセプションでの出会いは、7年近い期間を経て、平成5年6月9日のご成婚で結実した。ただ、この出会いはただの偶然ではなく、ご当人たちにも知らされず、周囲によって、“演出”されたものだったようだ。

 当時、皇太子さまの“お妃(きさき)候補探し”が宮内庁を中心に進められていたが、その中には雅子さまのお名前も挙がっていた。

 「(皇太子)殿下が(留学から)帰国された昭和60年の暮れ、宮内庁の依頼を受けて雅子さまを推薦しました」

 雅子さまを以前から知っていた元駐ソ連大使で、皇太子さまの英国留学の際の首席随員だった中川融(とおる)氏(1911~2001年)は、皇太子ご夫妻のご成婚のとき、こう打ち明けている。

 初めは周囲が演出したものだったとしても、おふたりはその後、強くひかれ合うようになられた。“お妃候補”は何人も浮上したが、皇太子さまは雅子さまにこだわり続けられた。


雅子さまは、外交官というキャリアを捨てて、皇室に入ることに悩まれた。それでも決断されたのには「いろいろな不安や心配がおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が一生、全力でお守りしますから」とする皇太子さまのお言葉があったことは有名だ。

 皇太子さまが雅子さまに、こう語られたのは4年11月後半。雅子さまは12月12日、プロポーズを受け入れられた。鎌田氏が語る。

 「皇太子さまは、ご自分の意志で雅子さまを選ばれた。だからこそ『一生、全力でお守りします』というお言葉を守られている。そして、将来も守り続けられるでしょう。おふたりで、未来の日本の皇室を、ぜひつくりあげていただきたいと思っています」


http://sankei.jp.msn.com/life/news/130608/imp13060818000004-n1.htm