頑固親爺(夢の愛ランド)
2011年ドリプラ世界大会「感動大賞」
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人の価値は、与えたもので測られる!

どうも、なにをやるにしても「やる気」が起きない!モチベーションが上がらない!

あと何年生きるか分からないし、最近のニュースを見ていても、先行き明るいことが何

一つない。明けても暮れてもウクライナのニュースだと思っていたらハマスだ、イスラ

エルだ、パレスチナだとまたまた戦争のニュースだ。そこに元日、そうそう能登半島地

震だ。どう見ても明るい未来とは言えない。これで目標を持て生きろと言われても、持

てるわけない。                          

 

 

折角ここまで築いた世界の歴史、もう少し全世界の平和に使おうよ!

物を作り出す技術、未来を創造する知恵等はどんどん進歩しているようだが、こと争い

ごと、権力争いになると、狂ってしまう。人間って、なんて馬鹿なんだ。やられたら、

やり返す、もっと頭を使えと言いたい。「知識×経験=知恵」じゃないのか?

長年培ってきた経験を素に知識を深め、そこから生まれる知恵はどう使うのだ。

そもそも知識、知恵は地球上で人類が長く、楽しく生きるために使うのではないのか。

「知識」は、物事を知ることで、「知恵」は、物事の筋道を立てて正しく処理していく

能力ということ。これはつまり「知識」を使って、問題を解決していく能力を「知恵」

だということ。「知識」は、人が頭の中に入れるデータのことで、そのデータを使って

問題を解決していく能力が「知恵」である。つまり入れるデータが悪いか、頭の回転が

悪いか、それを活かせないのだから、つまり「馬鹿」だと言うことです。

 

自叙伝、頑固親爺の生きざま

◇波瀾万丈のはじまり!

書き始めが迷うので漱石の「吾輩はねこである」を真似てみます。

吾輩は犬である。生まれはトンと分からない。2015年頃の生まれらしい。最初の飼い主が分からない。譲られ、譲られて、2020年に現在の頑固親爺のところに来た。

吾輩(犬)も海の物とも山の物とも定かでないが、ご主人である親爺もよく分からない変人だ。

その変人ぶりは、この後、いろいろ出てくるので楽しみにしてほしい。

また、オイラもところどころで【ブレークタイム】で。ナイショ話、裏話をUPするので、お楽しみにナイショだよん( ^ω^)・・・

さて、後に頑固親爺と呼ばれた勝治の母親は、気仙郡広田村田端1の大工棟梁吉田傳之助の二女ヒサだ。生まれは大正2年11月だから現在生きていれば112歳になる。

平成11年6月、84歳で亡くなった。後に漁師の三浦米一郎と結婚。

テキスト ボックス:  母は決して肝っ玉母さんでもなければ、佐賀のがばい婆ちゃん

ようでもありません。ましてや才女でもなく、ごくごく普通の

尋常小学校高等科卒業の平凡な、どちらかと言うと信心深い、しかも体重40㎏もない小柄な母親だ。

さて、気仙郡広田村泊(現在の陸前高田市広田町)と言う小さな、

小さな片田舎の漁村である。

時は、昭和20年8月1日、まだ戦争の真っ只中、何時どこで仕込んだものか、こともあろうに、終戦の15日前である。目がクリクリした、それは、それは可愛らしい赤ちゃんが生まれた。

これが後に頑固親爺と呼ばれる三浦勝治である。

 

そして8月9日、米軍が釜石製鉄所ある釜石市を標的に艦砲射撃を行う。米軍は海と空から艦砲射撃。釜石に向かったB29は事もあろうに、大船渡市にある当時の小野田セメントの3本の煙突を釜石製鉄所と間違えて、大船渡・高田地区を爆撃。突然の「空襲警報発令」である。村民は皆、防空壕に避難、もちろん母は赤ちゃんに戻ろうしたが、戻してもら得ず、まだ名も無い赤ん坊は、泣く泣く爆撃が終わるまで、一人置き去りだったそうだ。まさに九死に一生を得て、生まれて9日目の赤ん坊は生き残った。

父が不在の為、まだ小学校3年生だった兄が、戦争に勝つようにと「勝治」がいいと、父が帰るまで勝治と呼んでいた。父が帰りその旨伝えると、それならそれでいいだろうと「勝治」と命名された。正に波瀾万丈の始まりの予感… さてさて、その後の運命は…?

やがて、戦争が終わり、生き残った私は足の立つのが早く10カ月が過ぎると足が立ち始めたと云う。そんなある日、顔を真っ赤にしてグッタリしていた。なんと40°前後の発熱。急いで病院に駆け付けるも、終戦直後の岩手県下では赤痢が大流行し、赤痢患者優先で、すぐには見て貰えず、風邪と思われ2~3日してようやく診てもらったそうだ。

その後、病院を転々しながら、あらゆる手を施したにもかかわらず、脊髄性小児麻痺に罹り下肢機能障害となる。その後、実際に足が立って歩くようになったのは小学校に入学する直前だったと聞く。母は私が小児麻痺に罹患したのは、自分の不注意のせいだと思い込み、5人兄弟の真ん中である私を不憫に思い愛情を一番注いだようだ。当時は今とは違い、障害者は白い目で見られ、周りの友達からも「ビッコ、ビッコ」と呼ばれるのは当たり前で、近所のお母さんからでさえ「ビッコのくせに」と、悪口を言われることも度々でした。

母はそれが不憫で、不憫で「手が悪くっても、足が悪くとも、立派になった人は、いっぱい居る」と良く、野口英世の話をしてくれた。そのせいもあり、後に私は野口英世記念館に3回も行っている。特に英世のお母さんがアメリカの英世に宛てた手紙は、涙なしには読めない。母親の愛情がいっぱい詰まっていて、ホント涙・涙でした。

山奥の湯治場に籠る

遅ればせ「明けましておめでとうございます。」

 

お正月は、山の中の湯治場に籠って、生き様をあれこれ考えてみようと愛犬と湯治に来た。

生き様と言っても、これまでの生き方は反省しても、変えることはできないので、これからどう生きるか。そう余生をどう生きるかです。

あれこれ考えてみます。とは言ったものの、なかなか難しいです。

生きて行く上での希望は、

第一に、人様にご迷惑を掛けない生き方をしたい。人様とは家族は勿論、国とか行政以外の周りの人たちですね。

第二は、これまで通りの頑固親爺を貫くことですかね。

 

特別に長生きしたい訳でもないが、今年で昔流で言う(数え歳)傘寿(さんじゅう)なそうだ。

 

人間、この世に生を受けた以上、この世(社会)と関わって、生きるしかない。生きていく以上は、人さまのため、世のために生きるのは当然。

 

老後の生き方に楽しみを持つには、生きがいを見つけることが大切です。「生きがい」とは、夢中になって取り組める何かのこと。ボランティアやお稽古、家庭菜園など、ご自身にとって生きがいに感じられるものであれば、どのようなことでも構いません。これを機に、さまざまな趣味を知って、心を弾ませるものがあれば挑戦してみるのも良いでしょう。趣味をきっかけにした友人や知人ができれば、新しい人間関係を育んでいくこともできるはずです。趣味を共有できる人がいることで、楽しみも増すでしょう。        次回につづく

 

瑠奈ちゃんの「キッザニア」職業体験!

瑠奈(孫)ちゃんが秋休み(2学期制)に「キッザニア」に行ってきたときの日記と写真を送って来たので、ご紹介いたします。

はい、じじ馬鹿です!

 

                     キッザニアで職業体験!

                                          小4年生 今野瑠奈

 私は、10月8日(日)東北新幹線で東京に行きました。

着いたら、まず「キッザニア」をさがしました。見つけたら、すぐ中に入れるようなカードをもらいました。カードには番号が書いていました。「G―22」と書いていました。よくわからなっかたので周りをみました。カベには「A∸5~」や「B―15~」や「D―5~」と書いていました。「G―22」に3時25分にならべばいいとようやくわかりました。

 

まっている間にご飯を食べたり、お店を回ったりしました。3時25分ぎりぎりでならびました。中に入ると、ものすごい数の仕事ありました。

私は最初に飛行機の「パイロット」をしました。次に「ぽん酢工房スタッフ」をしました。楽しかった。次は「消防士」をしました。これも楽しかったです。次に「医師」をしました。

医師は、がんを取る仕事でした。2回目は、よかったけど、3回目はがんを取る機かいでがんを取ろうとしたが、がんが手術する人の体の肺のおくに落ちてしまいました。この後、この人はどうなるんだろうと思いました。けど、なんとかがんを取ることはできました。

つぎに入ったお仕事は「Dentist」に行きました。母が歯医者なので、どういう仕事を毎日やっているのか気になったからです。これが最後の仕事でした。その後、ホテルにとまりました。

 

 2日目(9日、月曜日)、朝ご飯を食べて、また「キッザニア」に向かいました。今度は「D―22」と書いていました。きのうより早かったのでよかったです。中に入って、まず「ゲームクリエイター」を予約しました。最初に入った仕事は「パフォーマー」をしました。とても楽しかったです。次に「マジシャン」をしました。これも楽しかったです。(先生の声がでかすぎてこまくがやぶれそうだった。)

次は「デレクタ―」をしました。(まちがえて、はずかしかった。)次に予約した「ゲームクリエイター」をしました。(めちゃくちゃ楽しかったです。)最後は「運転士」しました。あと一歩でかんぺきな地下鉄の運転士だった。けど楽しかったです。

その後、地下鉄に乗ってちがうホテルにとまりました。

 

 3日目(10日、火曜日)朝ご飯を食べて、上野動物園でパンダを見て、東北新幹線で帰りました。

途中の挿絵も中々上手です!

ユーロニュースから取材申し込み

先日、ユーロニュースから取材申し込みがあった。

 

ユーロニュース(euronews.)とは、ヨーロッパの主要放送局のテレビニュースを伝えるニュース専門放送局である。現在、15の言語(英語、ギリシャ語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ポーランド語、ハンガリー語、アルバニア語、ロシア語、ウクライナ語、トルコ語、アラビア語、ペルシャ語などで放送しており、世界160カ国、4億2400万世帯をカバーしている

なんでも親爺の牡蠣の取り込みが素晴らしいと高く評価されたらしい。

特にユーロニュースがフランスを中心にしたヨーロッパの主要放送局のテレビニュースだけに牡蠣の取り組みに興味を持ったらしい。

残念ながら大自然の温暖化の負けて牡蠣養殖を辞めたと伝えると、親爺以上に残念がってくれた。それでも桂島に行きたいと言ってくれたが、ご案内もままならないことを伝えお断り申し上げました。

桂島の牡蠣を全世界に売り出すチャンスだったのに・・・(なんと残念)

 

本来ならもう牡蠣の季節ですが、今年の牡蠣出荷は、生育が遅れているため、今月末になるらしい。大自然相手の仕事なので、予定通り行かないのが常である。

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