三味線の音がする。
ふわふわした、白っぽい世界の中で。
少し聴いただけで、高杉さんの音色だとすぐに分かって、わたしは小さく微笑んだ。
音色に連れて、高杉さんがふわりと立ち現れる。
三味線を奏でる高杉さんが、わたしは何より好きだ。
いつもは人を射抜く鋭い目線が、柔らかくわたしを見つめている。
伸びやかな声が、知らない曲なのに懐かしく思わせる旋律を奏でる。
長く硬い指先が三味線の弦を的確に押さえ、大きな掌が撥を繊細に跳ねさせる。
時折伏せられて翳る目線から、微かに和らいだ頬から、わたしを包み込むような、暖かな感情が滲み出ている。
景色も時間もない世界で、高杉さんの音色だけが、真っ直ぐに飛び込んでくる。
それだけで、わたしは容易く満たされてしまう。
……子守唄、だろうか。
包まれるような安心感。
今日の高杉さんは優しい。
だから調子に乗ったわたしはもっと甘えたくなって手を伸ばす。
何だか不自由にならない腕を持ち上げ、高杉さんに向かって伸ばすと、ふつりと旋律が止んだ。
同時に、優しい目線も靄のように掻き消えてしまう。
だめ。
行かないで。
わたしを独りで置いて行かないで。
この世界から、いなくならないで。
寂しくなってもがくけれど、身体は相変わらず不自由で、高杉さんを見つけることすら出来ない。
勝手に涙が溢れて……
そして、優しく拭われる。
現実の感触にびくりと震えて眼を覚ますと、心配げな顔でわたしを覗き込む高杉さんと眼が合った。
わたしは布団に寝かされていた。腕が布団を跳ね除けている。
喉が渇いている。身体が熱い。頑張って声を絞り出すと、少し掠れた声が転がり落ちた。
「たか、すぎさん?」
「魘されていた。嫌な夢でも見たか」
「え……だって、高杉さん……三味線を…それで、急にいなくなって……」
思い出して、また涙が零れそうになる。
掬い上げるように気遣わしげな優しい声と、わたしの髪をそっと梳く手。
「落ち着け。俺はここにいる」
「本当ですか?」
起き上がって、高杉さんの頬に触れる。
あたたかく、やわらかい。
確かな温もりに安堵して、嬉しくて、三味線を片手に抱える高杉さんの、空いた方の肩に寄り添う。
眼を閉じて、身体全体を預けるように寄り掛かる。
わたしの肩に腕をまわしながらも、戸惑うように高杉さんがわたしの名を呼ぶ。
そうすると、耳をつけた肩から高杉さんの声がわたしの頬を伝って、振動として感じる。
高杉さんの動揺も心配も、いつもよりも直接的にわたしの中に沁みていくようで。
何だか楽しくなってきて、わたしは声を上げて笑った。
何故だかあまりまわらない呂律で、高杉さんの耳に吹き込むように囁く。
「あったかくて、きもちいいです。ふふ」
「……っ」
引き剥がすように離され、高杉さんが溜息を吐く。
大きな硬い掌がわたしの頬を包んだ。
「まだ酔ってるな。……全く、お前は放っておくとすぐ無茶をする」
お酒のせいですっかりご機嫌なわたしには、高杉さんの言葉も耳に入らない。
ふふふと笑って、もう一度寄り掛かる。
高杉さんはまたわたしを腕の中におさめて支えながら、いつものように、薄い唇の端を妖艶に持ち上げた。
「それとも何か、酒に任せて誘ってるのか?」
「んー……そうかも知れないですね。今日は何だか高杉さんに触れていたいし、触れて欲しい気分です」
「お前な……」
ことり。
高杉さんが呆れた溜息と共に身じろいだ瞬間、何かが畳に落ちた。
「これ、何ですか?」
拾い上げてみると、細長い包み。きちんと刺繍がなされた薄布でできている。
うっすらと透けて見える中身を取り出してみると、それは扇子だった。
「きれい……」
竹製の細身のものだった。
開いてみると、地の色は淡い桜色から艶やかな赤紫を経て、しっとりとした紺へと色が移り変わっていく。
そして紺地の部分から大きく凛と咲き誇る白菊。
そして桜色の中に、流れるように散る白露。
息を呑むほど流麗で優雅な、一幅の絵のような。
骨の部分にまで、細やかな透かし彫りが施されている。
要の金具からは鮮やかな飾り紐が伸び、先に二つの硝子玉が付けられている。
おまけに、軽く揺らすとふわりと優美な香りが漂った。お香が焚き染められているようだ。
華やかながらも上品で、明らかに高価な品物だとわかる。
そして、男物ではないということも。
見惚れていた扇子から顔を上げて高杉さんを見遣ると、意地の悪そうな笑みを浮かべている。
「贈り物だ。惚れた女への」
おくりもの。
ほれたおんな。
ぐるぐると思考が渦を巻く。
おくりもの。贈り物?
誰への?
おんな。女の人?
惚れた?
高杉さんの、好きな人?
おんなの、ひと。
「島原の女でな。今までに出逢ったことのないような、とびきり面白い女だ」
「その人のこと、本気で好きなんですか……?」
「ああ。根っから惚れている。俺としたことが、骨抜き同然だな」
高杉さんの切れ長の瞳が、柔らかく緩む。
その人のことを本当に想っているのが伝わってくる優しい瞳。
その眼が愛おしげに笑うほどに、わたしの心はぎゅうぎゅうと棘に刺されるようで、呼吸すら苦しい。
わたしの知らない、女の人の影がちらつく。
わたしの知らない高杉さんがそこにはいて、けれど彼女はその姿をきっとたくさん知っている。
だって、この高杉さんが、ほねぬき、なのだもの。
きっととても大人で色っぽくて艶やかで高杉さんにお似合いの美人なのだろう。
どこの誰、なんて陳腐な言葉が浮かびかけて、途端にしぼむ。
わたしに、そんなことを問い質す権利があるだろうか。
これだけ素敵な人が、ずっとわたしを大事にしてくれるなんて思ってた?
そもそも、気に入っているとは口にしても、高杉さんは確定的な言葉をくれない。
ちょっと面白いからからかってるだけ?
自覚はしてなかったけれど、お酒のせいなのか、わたしの感情はひどく揺らぎやすくなっていて、
先ほどまでのふわふわした楽しい気持ちなんて、瞬く間に吹き飛んでしまった。
一度はおさまっていた涙が、また眼の表面を濡らしていく。
溜まった涙は堪えきれずに、ぽろぽろと頬を零れ落ちた。
「おい……」
慌てたような高杉さんの声が遠い。
「じゃあ、さっさとその人のとこに行けば良いじゃないですか……っ」
高杉さんが困ったような声色で、わたしの名を呼ぶ。
どうして?
好きじゃないなら放っておいてよ。
優しくなんてしないでよ。
わたしみたいな小娘をからかってないで、愛しい人のところに行ってあげればいいじゃない。
ああ、ともどかしげに呻いた後、三味線をきちんと畳に置いて、高杉さんがわたしに向き直る。
「悪かった」
余計に涙が止まらない。
何を謝っているのだろう。
ちゃんと言葉にする前に振られたってこと?
言わせてもくれないの?
途端、高杉さんの硬く優しい腕に閉じ込められる。
わたしはこの腕を知ってる。
意地悪ばかりしてからかって、だけどわたしが落ち込んだときには絶対に気づいて、彼流のやり方で励まし慰めてくれる。
きっと高杉さんが去ってしまっても、忘れてしまうなんてできない。
高杉さんがわたしのことなんて瞬きほどで忘れてしまうとしても。
と、熱い溜息が首すじにかかる。
「……お前のものだ」
「………え」
たっぷりの間を置いて、間抜けな声で返す。
頭がついていかなくて止まらない涙が、遅れてはらりと落ちた。
長く硬い指先で、きゅ、と拭ってくれる。
「この扇子は、」
とわたしの掌ごと包み込んで。
「お前に贈ろうと思って用意した。疲れているようだったから、慰め程度にはなるだろうと」
高杉さんの言葉を信じられなかったのか、
単に意地悪を返したかっただけなのか。
自分でも分からないけれど、わたしは拗ねたように呟く。
「……本当ですか」
「本当だ」
すぐさま返される真摯な声。
溢れ出す幸福を堪えて続ける。
「じゃあ、証明してみて下さい。高杉さんがこの扇子を贈ろうとした相手は、……高杉さんの好きな人は、わたしだって」
じ、と見つめられる瞳。
烈火と琴線を併せ持つ瞳。
ふと少年のように笑って、高杉さんは無造作にわたしを畳へ押し倒した。
「そこまで言うなら、俺が誰に惚れているのか、その身体に教え込んでやろうか」
「……良いですよ」
ただの強がりだ。
決して嫌な訳ではないけれど、やっぱり少し怖い。
少し冷たく湿った指先をこっそり握り締める。
と、わたしを捉えていた瞳が離れていく。
「酔った女を、それも生娘を、抱く趣味はない」
何それ。
結局、わたしじゃダメってこと?
男の人も知らないような、こんな面倒くさい小娘なんか、高杉さんのお相手じゃないってこと?
「やっぱり浮気なんだ……」
そもそも高杉さんとわたしの関係を、付き合っていると呼べるのかすら定かですらない。
哀しい気持ちがひたひたと押し寄せて、わたしは布団に潜り込んでそっぽを向いた。
と、大きな溜息。
やっぱり、面倒くさいんだ。
押し潰されそうな胸に頑張って空気を送り込む。
はたり、甘い風が後ろから送られる。
あの扇子を、高杉さんがわたしに向けて扇いでいるのだ。
優しい香りが、ぎすぎすしたわたしの心をふわりふわりと包み込んでいく。
振り返らないわたしに、高杉さんは小さく語りかけた。
「……いつも、お前が欲しいと思っている」
たった一言に、大きく心臓が跳ねる。
冷えていた指先にまで熱が通って、とくとくと甘く鳴る。
「この国の未来を憂える時も、月見酒を嗜む時も、三味線を弾く時も。
いつも傍にいてやれなくて、もどかしく思う。だから、こんな風に物を与えて、俺のものだと証を立てたがる。
……都合の良い話かも知れないな。子供染みた真似だろう。俺らしくない。
……だが、らしくなくて良い。お前の笑顔を咲かせることに比べれば、そんなことは些末なことだ」
甘い香りはゆっくりと引いて、高杉さんはまた窓際で三味線を奏で始めた。
知識がないから詳しくは分からないけれど、高杉さんの故郷の唄のようだった。
萩の浜辺を唄った、どこか懐かしい調べ。
或いは、恋しい人を想う、切ない溜息のような。
低くひそめた伸びやかな声で、ゆったりと紡いでいく。
わたしの中で燻っていた醜い疑念や意地が、彼の唄声で溶かされていく。
高杉さんの声は、わたしのちっぽけな不安や嫉妬を全て赦してくれるようだった。
からかわれても意地悪されても、わたしが高杉さんを必ず赦してしまうのと同じように。
わたしはそろりと布団を抜け出す。
枕元に丁寧に閉じて置いてあった扇子を拾い、窓際の高杉さんの傍に座る。
三味線の弦を押さえる指を邪魔しないように気をつけながら、彼の左肩に、そっと寄り添った。
高杉さんは、何も言わず、ただ唄と三味線を止める。
「疑ってごめんなさい。
高杉さんを待つ時間が長くて、寂しくなるときもあるんです。
……高杉さんがいつまでわたしのことを見ててくれるのか、少し不安になっちゃうことも。
だけど、会えない間、どんなに高杉さんが必死で働いてるのか、よく知ってます。
……だから、大丈夫です。
わたしが好きになったのは、とっても国思いの長州藩士で、理想を目指す攘夷志士の、高杉晋作なんです」
高杉さんは身じろぎもせず、返事もない。
わたしは扇子を広げて、小さく扇いだ。
甘く優しい香り。
高杉さんがわたしに注いでくれる愛情のような。
わたしが疲れてそうだからって、こんな高価そうな扇子を、わざわざ買ってくれた。
忙しいであろう高杉さんが、きっと合間を縫って時間を作って、店先に足を運び、わたしにはどれが良いだろうと選んでくれたのだ。
彼がわたしのために割いてくれた時間と労力が、この扇子の裏に隠れている。
それはそのまま、わたしへの想いの大きさを示してくれる気がした。
こんなに嬉しくて、こんなに幸せなことがあるだろうか。
もう一度、甘くも涼やかな、高杉さんがわたしにと選んでくれた香りを胸に送る。
「……良い香り。大切にします」
しゃん、と小さく三味線が鳴る。
高杉さんは唄わないまま、三味線の旋律だけを奏で続けた。
その音に紛れて、はっきりとは聞こえなかったけれど、わたしの耳には確かに届いた。
「必ず、迎えに来る」
三味線の優しい音色。
扇子の甘い香り。
凛とした横顔。
優しく瞬く瞳。
柔らかな月に照らされて、二人だけの夜が、ゆっくりと更けて行く。
〈「微酔なる君と戯れを」
高杉 晋作 編 第二幕 終了〉
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このお話はフィクションです。
未成年者の飲酒を推奨するお話ではありません。
未成年者の飲酒は、法律で禁じられております。
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