いつか、この空の下で #1
「いってらっしゃい」
自宅マンションのドアを開け出て行こうとするオレの背中に、廊下を小走りで追いかけてきた母親が声を掛ける。
それに対して振り返ることも、返事をすることもないままにドアを閉め通路に出ると、春の朝の暖かい日差しが真っ青な空から通路いっぱいに降り注いでいた。
いつものようにエレベーターが設置されている方とは逆の非常階段のあるドアに向かって歩き、重いドアを開けると下から少し肌寒い風が吹き抜けてきた。
7階建てマンションの最上階から下へと続く階段。
どこまでも続くように見えるこの階段を見下ろすたびに、重い気持ちが更に重くなるのを感じる。
先月、父親の転勤に伴い都内から両親と共に大阪市内に引っ越して来たオレは、引越し先が7階建てのマンション、しかもその最上階だと言うことを知った時、親父に付いて来ることを選択したことを一瞬後悔した。
訳あってエレベーターに極力乗りたくないオレにとって、毎日の通学時、7階分の階段を往復することになるという事は、いくら17歳の体力を持ってしてもうんざりせざるを得ない現実だった。
都内でも有名な進学校に通っていたオレに、両親はもったいないからひとり都内に残ってもいいと言ってくれた。
だけどオレはそれを選ばなかった。
別に両親と離れることが嫌だったわけじゃない。
むしろ一人暮らしをさせてもらえるならその方が気が楽だったと思う。
それまで在籍していた高校は有名進学校だけに、遠方から入学する学生のためにきちんと寮が完備されていて、両親はそこへ入ることを提案してくれたわけだが、それだけは絶対避けたかった。
ただでさえ集団でいることが苦手で、学校という空間にいるだけでも苦痛なのに。
帰宅後の生活まで他人と過ごすなんて考えただけでもぞっとした。
だから両親の勧めを断り、高校2年に進級するのと同時に引越し先に近いと言う理由だけで選んだ公立の高校へ編入することを決めた。
引越し先からも、バスや電車を使えば通学できる範囲に、それまで通っていた学校と同レベルの高校はいくつかあったけれど、それは選べなかった。
バスや電車に乗りたくないオレは、どうしても徒歩で通学したかったから。
今置かれている状況を選んだのは全部自分。
結局オレにはこの階段を毎日往復するということしか選択できないんだと、溜め息をついて長い階段を降り始めた。
「おーい、彼方(かなた)」
階段を降り始めてすぐ、非常口の重いドアが閉る音と共にオレを呼ぶ声と、階段を駆け下りてくる靴音が聞こえた。
その声の主は、オレを更にうんざりさせる。
「一緒に行こうて毎日ゆうてるやん。何でいっつも先にいくねん」
わざと歩を速めたオレに、慌てて追いついてきた安田弘樹はそう言いながら並んで階段を降り始めた。
「オレはそんな約束した覚えはない」
そう言い返して更に歩を速めて降りるオレに「相変わらず冷たいなあ」とブツブツ言いながらも安田はオレの後ろに付いて階段を降りてくる。
安田弘樹。
オレの自宅の隣に住んでいるコイツとは、編入した先の高校が同じ、しかもクラスも同じだった。
だからと言ってオレは、仲良くする気は最初からなかった。
ある時期から、オレの中に「友達」と言うカテゴリはない。
友達なんてものは面倒で、気を使わなきゃならない単なるわずらわしいものでしかないとしか思えないから。
なのに。
引っ越してきた当日から、安田は「力仕事を手伝う」とウチに上がり込み、早くもオレの両親と仲良くなり、オレに対しても初対面とは思えないような馴れ馴れしさで接して来たのだった。
それからも理由を付けては家に来たり、何かとオレに絡んで来たりする。
オレにとって、安田はウザい存在でしかないということを伝えたら、オレに関わるのを止めてくれるのだろうか。
安田の顔を見るたびそう思う。
だけど、何故か言えない。
だから結局毎日こうやって、オレを追いかけてくる安田と一緒に通学するハメになるのだった。
「慣れへん街の中で迷子にならんよう、気にしたってるオレの優しさが何で彼方には伝われへんのかなあ」
人懐っこい、やや童顔な顔に無理やり拗ねたような表情を作る安田を横目で一瞥する。
引っ越してきてもう1ヶ月が過ぎ、それと同じ期間、週に5日通学している道で迷子になると考えること自体失礼だろ、と心の中で吐き捨てた。
非常階段からマンション前の通りに向かって歩いていると、マンションのエントランスからちょうど出てきた美羽と目が合った。
安田美羽(みう)。
オレと同じ高校の1年。安田の妹。
うるさくて馴れ馴れしい安田と違い、よく言えば物静か、悪く言えば冷たい印象の大人っぽい顔立ちで、安田の方が年下に見える。
咄嗟に目を逸らすと、美羽は軽蔑しているかのような表情で、腰まで届きそうなくらいに真っ直ぐに伸びた綺麗な黒髪をなびかせそっぽを向いた。
「何やねん、美羽。挨拶くらいせーよ」
「誰に?」
「彼方に決まってるやろ」
安田に注意された美羽は、小馬鹿にしたように鼻でフン、と笑ってさっさと前を歩いて行く。
「お、おい。聞いてんのかあ?」
慌てて美羽の背中に向かってそう言う安田のことなんか構わず、美羽は振り返りもしなかった。
結局美羽にもオレにも相手にされないまま、オレの横で安田は一人ブツブツ言っている。
「ホンマ腹立つ。アイツ、オレの事何やと思ってんねん。ゴメンなあ、挨拶も出来んようなあんな妹で」
「……別に」
どうでもいい。
他人が自分に対してどんな態度を取ろうが興味はない。
いちいち気にしていたら、自分の心が病んでしまう。
経験上、そういう部分では強くなったなと密かに自分を振り返る。
「昔はあんな可愛げのない奴やなかってんけどな」
随分前をどんどん歩いて行く美羽の後姿を眺めながら、安田はそう呟いた。
マンションから徒歩15分程の距離にある学校の手前まで来ると、学校の前のバス停にちょうどバスが停まり、中から学生達が次々と下りてくるのが見えた。
一気に校門前が人でいっぱいになるのを見ると、自然に足が止まる。
人混みは苦手だ。
思いがけず人の感情を感じてしまう可能性があるから。
立ち止まり、生徒の群れが校内に流れていくのを待っていると、
後ろから「おはよ」と声を掛けられた。
声の方を見ると、同じクラスの小山隆平が立っていた。
「おう、おはよう」
明るい声で挨拶を返す安田と小山に、ああ、挨拶はオレにじゃなく安田へのものだったんだと、いつものようにじゃれ合う2人を無視して、人の少ない道を見つけて教室へと向かうことにした。
「あ、おい、彼方も挨拶せえよ。それじゃあ礼儀知らずの美羽といっしょやんか」
生徒で混雑する廊下の端を歩くオレの背中に安田の声が響く。
「オレの友達が妹と同類なんて、嫌やで」
―――――――友達?
その言葉に眉間に皺を寄せて思わず振り返る。
「な、なんや?そんな怖い顔して」
「オレとお前、いつ友達なんかになったんだよ」
安田に問いかける。
「いつって、彼方が引っ越してきた日やんか」
不思議そうな表情を浮かべた安田は、当たり前のようにそう答えた。
「それはお前が一方的にそう思ってるだけだろ。オレはお前を友達だなんて思ったことはない」
廊下を行き交う生徒達の雑音の中、自分が発した言葉だけが耳に響く。
ぽかんとオレを見つめる安田と小山に構わず、オレは踵を返してまだ生徒で溢れる校門を抜け、校内へと向かった。
こんなこと位で過剰に反応する自分の方がオカシイのだということはわかってる。
だけど、安田が言った「友達」と言う言葉に苛立ちを覚えると同時に、思い出したくもない記憶の奥にある、一人の少年の微笑んだ顔が浮かんだ。
―――――――僕達、友達だろ?
記憶の中のそいつが、当たり前のように言った時のことが重なる。
二度と思い出したくもない瞬間の事。
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