人生の中で「いい先生」と思った先生はいますか?
どんな先生がいい先生なのでしょう?
私事ですが・・・
高校1年の時、数学の先生はもう定年まぢかというN先生。教えることに対しての気概や気迫のようなものを全く感じることのない先生でした。
しかも教え方は教科書を棒読みするだけ。おかげで数学が苦手科目となりました。
そんな先生に対する反抗心が芽生えてか、私ともう一人の友達とで、授業中にいろいろいたずらをしたことを思い出します。
例えば、いまでも覚えているのは、教壇の中にラジカセを置いておいて、授業中に音が鳴るようにしておき、先生をからかったこと。
そんなことをしていたので、数学の試験ももちろんよろしくありません。高校に入った年の最初の定期試験でバッチリ赤点を取りました。
そして夏休み前に数学の補講を受けなければならないことになり、その際に補講を受け持って下さったのがN先生ではなく、隣のクラスの担任。
名前は忘れましたが、スフィンクスのような髪形をしていたので、スフィンクスと呼ばれている先生でした。
補講の当日、スフィンクスは赤点を取った者たちを前に、そのテストの解答を解説してくださいました。
その解説を聞いた私の心の声は・・・?
「こんなにわかりやすいなんて! この先生に教わっていたら、数学が好きになっていたかも」
教え方が断然スフィンクスの方が上手で、とてもわかりやすい。先生によってこんなにも違うんだと思いました。
そんな事例を踏まえて、「N先生より、スフィンクスはいい先生?」かどうかを考えてみましょう。
その疑問に答える上で、次の「数学の王様」と言われたガウスが小学2年生だった時のエピソードをご覧ください。
(ガウスが小2の時の)先生は、生徒にめんどうで、時間のかかる問題を出して、その間に自分の内職仕事をすませようとした。けしからん先生だ。
出した問題が1+2たす3+・・・・+100というもの。小学2年生が律儀にたし算し、検算したら一時間はかかるだろうと先生は考えた。
だが、内職仕事を手につけぬうちにガウスが、田舎ことばまるだしで「先生、もう、できただす」と言った。先生は「ばかな」とつぶやきながらガウスのノートをのぞくと、そこには1~100までの数字と100から1までの数字が並べて書かれ、並んだ数字を横に足すと、どこの並びも101になることをみつけていた。
そして、その半分でいいのだから101の50倍、5050がその答えだと書かれていた。先生はぶったまげて、この田舎弁まるだしの八歳の子どもの顔をじっと見つめた。
この時から、その先生は「れんが職人」の息子に勉強はいらん、という頑固おやじを説き伏せ、村人にも援助させて、この子供を大学に進ませようとした。自分のようなやぶ先生よりも、もっとふさわしい先生につかせようとしたのだ。
ちなみに、この話は「なだいなだ」さんの「教育問答 (中公新書 488)
」という本に書かれていたもの。
本の内容は、Aさんという妊娠中の女性と、ご本人がモデルの医者との対話を通して教育について語るというもの。
対話形式なので比較的読みやすい本なのですが、「なだ」さんの深い洞察に基づいた考えが、そのやり取りの中で随所に示されています。
今まで考えたこともなかったような視点を与えてくれるので、思考をかなり刺激されます。
ちなみに、その本の4章が「先生の役割について」という章。
その中で「いい先生とはどんな先生か?」が語られています。
では、どんな先生がいい先生だと思いますか?
例えば、ガウスの先生は、内職を授業中にやるような先生でしたが、「この子は」と思ったら親を説き伏せ、周りも巻き込んででも、彼によりよい教育を受けさせるように動いた。
「なだ」さんは、次のように続けます。
その先生は、ガウスになにも教えてやれなかったが、ぼくは、彼がそれなりにいい先生だったと思うのだ。このやぶ先生は、やぶであり、時間中に内職をするけしからん先生だったが、ガウスにとっては一生わすれることのできないいい先生だったにちがいない。
この文章を読んでどう思われますか?
教えることが上手、下手という価値判断だけで、その先生がいい先生かどうかはわからないということがお分かりになるのではないでしょうか。
教えることが上手な先生が、決していい先生とは限らない。
ちなみに「なだ」さんは、いい先生についてこんなことを述べています。
なんでも教えてくれる先生より、学ぶ楽しさに目を開かせてくれる先生、教えることの上手な先生より、自分で学んでいる先生の方が、いい先生ということになります。
なださんの著書、「教育問答 (中公新書 488)
」は、教育について深く考えるチャンスを与えてくれます。
教育問題に興味のある方にお勧めです!