静岡新聞の夕刊に「水の透視画法」という辺見庸氏のコラムが連載されている。

ゆうべ24日は「不況下もうひとつの恐怖」と題する文だった。


辺見氏の文はいつも痛烈な批判精神に基づいていて、多少難解な文だ。


言葉とは、人間が必要に応じて作り出してきたものではなく、聖書の「はじめに言葉ありき」という言葉通り、宇宙にはじめから存在しているものであるという論理を、私はここ数年前にやっと知った。

今までの認識とは180度正反対のこの論理を理解できるところまでいっていない。


しかし、辺見氏の文章もこの論理に基づいて語っていると思う。


このコラムから、気になった文を取り出しておきたい。


「言葉を私たちがうばわれるのではなく、私たちが言葉から見はなされるのです。言葉の主体がすでにむなしいから、言葉の方で耐えきれずに、主体である私たちを見はなすのです」 石原吉郎


「内奥の沈黙の核へむかって言葉を集中的に向けてゆく場合にのみ、(言葉は)真の働きが得られるのです」

「手段となった言葉などは雑草です」 ヴァルター・ベンヤミン


「私たちがなお言葉をもちつづけようと思うなら、もはや沈黙によるしかない」 石原吉郎