二十一世紀の理念を打ち立てる。  いざ智慧と慈悲の時代へ | 復活の時は今

復活の時は今

「新しき出発」   私の願いはただ一点。世を照らしたい。太陽の法の時代の到来を信じて

理想も、理念も、正義も、気概もない国家が存在したとするなら、それは、たいへん愁うべきことである。さらに、善悪の価値尺度もないなら、凶悪な事件さえ引き起こすだろう。正義とは、何なのかも考えず、とりあえず生き延びることだけを考える人が、多数存在したとするなら、この日本は、外国からは、異色な国に、見られていくことになる。これは、恥ずべきことだ。歴史上でいうと、ローマに滅ぼされたカルタゴのように、富のみを集め、「暮らしさえ楽ならよい。」と、それ以上のことは考えようとしない国と、レッテルを貼られかかっているのだ。街の財産を残そうとか、次世代に残る考え方を、発明しようとか、気概がなければならないのだ。

 敗戦後、日本は経済的に世界で二、三十位ぐらいだったときがあったが、今の日本人の何割かには、そのころの意識がまだ残っており、日本を中流国家のように自ら感じている。

 しかし、日本は、すでに世界で一、二位を争う経済大国であり、当然、世界を引っ張って行く理念や信条をもたねばならない。誰であろうと、一定以上の力を持ったときには、他に対する責任が生ずる。会社が、国が、大きくなれば当然のことである。

 現代は、新しい時代の端境期として、古いものが消え、新しいものが出てくる時代である。

 二十世紀の思想の屋台骨ともなった「自由と平等」、フランス革命以降のこの「自由と平等」の精神は、双方がうまく機能したときは、最高の繁栄がそこに表れるがもともとこの二つの理念は、実際は両立しない。本質的に矛盾した二つの概念である。自由のみを求めてゆけば、差と言うものが生まれてくるし、単なるばらばらの個人主義のあつまりにまで、堕してゆくことさえある。自由と自由を互いに主張しあえば、そこには必ず争いが起こり、キリスト教文化圏で戦争が後をたたないのは、これが大きな原因だと思う。また、平等を求めすぎると、かなり抑圧的なシステムをそこに構築しなければならない。自由と平等という相矛盾するものを、近代化の原理として同時に受け入れた近代の人々、その葛藤の中で、壮大な文明実験をした結果、社会主義国家は、崩壊し、自由主義国家も混乱への道を歩んでいる。フランス革命以降の文明実験が、二百年の歴史を経て、今終わりを迎えるようだ。

 京都大学の教授だった田辺 元という方は、自由と平等は、矛盾するものであるが、両者を架橋するものがあるとするならば、それは「友愛」であろうと述べている。これを慈悲というなら、これまでの自由と平等の精神から、二十一世紀を開くキーワードは、「智慧と慈悲」ではないかと考える。愛と悟りとしてもよい。思いやりの心と精進の心と言ってもよい。ここに我々が進むべき方向の、大きな転換の理論がある。

 智慧がないから、環境に翻弄される。智慧がないがゆえに間違った考えに翻弄され堕落していく。真実の智慧を持つことによって我々は、あらゆる束縛から逃れ、この世の問題にも快刀乱麻を断つがごとく対処してゆくことができる。「知は、力なり」とも「真理は、汝を自由にしたもう」ともいうが、我々を本当に自由にするのは、智慧なのである。我々に必要なのは、智慧である。しかし、智慧とは権利ではない。それは、権利では、なく「義務」なのである。「自由」の概念は、「智慧」に置き換えられるべきなのだ。

 平等という言葉の中には、利己的な面がみられる。みんなが平等なのだから努力をしていない自分でも皆と同じ恩恵を受けるべきだと誤って捕らえる向きがあるが、これは、権利と義務とが逆転している。私達は、慈悲を受ける権利を主張するのではなく、慈悲を与える義務をもつのである。他に愛を与える義務がある。我々は、ユートピアに連れていってもらう権利があるのではなく、ユートピアを建設する義務がある。理想の集団、理想の国というのは、コンクリートで造るのでもなく、ビルを建てるのでもなく、それは、理念で造るのだ。まず、はじめに「言葉」ありき。何でも権利ずくめで考えることには非常に大きな問題がある。

 二十世紀は、智慧のうちでも、とりわけ知性の時代だった。しかし、知性、理性、感性、悟性と「智慧」には、多様な側面があるように、次の時代は、もっと広い観点から物事を考えられる人材を育てねばならない。まさしく現代は、そのターニングポイントであったことは、後世の歴史が必ず証明してくれることと思う。