アメフラシ | きくな湯田眼科-院長のブログ

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横浜市港北区菊名にある『きくな湯田眼科』

海岸でナメクジのように這って動く生物にアメフラシaplysia : sea hare(hareは兎眼の項目で記載しましたが、ウサギを意味する英語です。触手がウサギの耳のように見えることからsea hare となったものです) という軟体動物がいます。



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アメフラシは攻撃されると紫色の液を出し、それが雨雲のように拡がることから名付けられたそうですが、体を保護する骨格や貝殻を持ちませんので傷つきやすく、特にえらのような重要な組織は外的刺激ですぐに体の内部に引っ込めて保護するようになっています。この反射運動を”えら引っ込め反射gill-withdrawal reflex” と言います。



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アメフラシは神経系が巨大な細胞体を持つ神経節と呼ばれる少数の神経細胞集団で構成されており、神経系の観察が容易であることから、ヤリイカと同じように神経の研究に適した動物です。この生物を用いて条件反射を研究し、ノーベル賞をもらった学者がいます。



その人は米国コロンビア大学の生化学・生物物理学教授 Eric Richard Kandel (1929-)と言う人です。



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キャンデルはオーストリア・ウイーン生まれのユダヤ人です。両親は西ウクライナ出身で第一次世界大戦の時にウイーンに移住し、おもちゃ店を経営しました。ナチスの侵略によるユダヤ人虐待から、キャンデル一家は1938年にオーストリアを去り、米国に移住することになりました。



米国ではニューヨークのブルックリンに定住し、キャンデルはブルックリンの公立高校を卒業、運良くハーバード大学に進学することができました。大学で彼はヨーロッパの歴史・文学について学び、卒業論文” The Attitude Toward National Socialism of Three German Writers: Carl Zuckmayer(カール・ツックマイヤー)、 Hans Carossa(ハンス・カロッサ)、 and Ernst Junger(エルンスト・ユンガー)”を書き上げました。


彼はこれらの知識人がもっと積極的に働き、世論を誘導していればヒットラーの台頭はなかっただろうと考えました。大学卒業時点では彼は卒後にヨーロッパの知識階層の歴史をさらに研究しようと考えていました。


ところが、ガールフレンドAnna Krisとの巡り会いが、彼の行く道を決めることになります。アンナ・クリスの両親Ernst と Marianne Krisもキャンデル一家と同様にウイーンから米国へ亡命してきました。母親のマリアン・クリスの父親はウイーンで有名な小児科医で精神分析で有名なフロイド Freudの親友でした。


また彼女自身もフロイドの優秀な娘Anna Freudの親友でした。そのような関係からマリアンは精神分析に興味を持ち、夫とともに心理療法の達人となっていました。やがてキャンデルはアンナクリスの家族と接するうちに、彼らのより所となっているフロイドの思想に傾注するようになり、精神・心理に強く興味を引かれるようになりました。



こうして心理分析医になることを決心したキャンデルは、その為には医師になった方が良いと考え、1952年に N.Y.U. Medical School (ニューヨーク大学医学校) に入学しました。


キャンデルは医学部入学後、精神の生物学的な基礎的研究に興味を持っていましたが、NYUには基礎神経学を研究している人は見あたらず、彼は当時最も電気生理に長けていた神経生理学者であったコロンビア大学のHarry Grundfestに電気生理学的な技術を教わることにしました。



この頃、アンナとは別の女性Denise Bystryn(ユダヤ系フランス人)とつきあうことになりました。やがて彼らは結婚することになりますが、それを、前彼女のアンナはどう思ったか、またキャンデル自身は何も感じなかったのか(なにしろアンナは自分の一生を決めることになった重要な女性ですよ)、彼らの精神分析でもしたいところですね(キャンデルの自伝では新しい彼女に巡り会ってピピッときた、と言うようなことを書いていますが・・・)。



1956年に大学卒業と同時にデニスと結婚したキャンデルはMontefiore Hospital でインターンを開始し、コロンビア大学のグランフェストの教室に戻り、 教室の Stanley Crainから微小電極の作り方、培養細胞内電位測定の方法等を教えてもらいました。こうして彼らから細胞内電位測定技術を伝授されたキャンデルは、グランフェストの紹介でNIH(National Institutes of Health)に行くことになりました。



キャンデルがNIHに着く少し前に、脳外科医William Scovilleが側頭てんかん患者のH.M.に対して両側側頭葉切除術を行っていました。スコビールは患者H.M.はこの手術によりてんかん発作は起こらなくなったが、記憶が全くできなくなったと報告しました。手術では側頭葉内側の海馬も切除されていました。こうしてこの部分に記憶の場があることが明らかとなりました。それまで記憶の場を求めて研究を行った著名な神経学者、ハーバード大学精神科教授 Karl Lashley (ヘッブの師匠です。Hebbの項を参照してください)は結局記憶の場を発見できず、大脳全体が記憶に関わっていると結論づけていたのです。したがってこのスコビールの報告は大変価値のあるものでした。



カハールの研究から、海馬は多くの動物でその構造が類似している古皮質に属し、主要構成細胞である錐体細胞は分離されていて、その軸索は太い線維経路(fornix)に入っていることが示されており、キャンデルは細胞の電気記録が比較的簡単だと思いました。そこで記憶の構成過程に特に興味を持っていたキャンデルは、海馬の錘体神経を狙ってその電気記録を取ることを試みました。


その結果、海馬の錘体神経はその活動電位が他の神経細胞と異なり軸索丘だけでなく、樹状突起にも見られました。これはここに反回回路があることを物語っていました。


さらに記憶の座を求めて電気記録を試みたものの、あまりに複雑な哺乳動物の神経回路にキャンデルは途方にくれてしまいました。もっと単純な神経回路はないものか、そう考えたキャンデルは様々な情報を当たりました。最終的にアメフラシの神経細胞が大型で数も少なく、実験系としては最適だと思ったのです。果たしてこのような下等生物の結果が人の記憶の研究に役立つのか、そこには少々のリスクがありましたが、彼は決断しました。


当時アメフラシの研究を行っている所は、フランスでパリのLadislav Tauc(1926 – 1999)の研究室か、マルセイユのAngelique Arvanitaki-Chalazonitisの研究室しかありませんでした。キャンデルはどちらに行くか迷いましたが、かつてパリジェンヌだった妻のデニスはマルセイユみたいな田舎には行きたくないと言いだし、キャンデルはパリのトークの所へ行くことにしました。


いくつかの仕事を終えた後、1962年にキャンデルは1才になった長男Paulと妻Deniseを伴いパリに向かって旅立ちました。


アメフラシの実験はまた次回に。