なぜ、日本人はパンを主食とせず、ご飯を食べるのか。この日本人の食文化に関する答えを一般的には国土がモンスーン地帯にあり、夏暑く梅雨時に降雨量が多い、ゆえに熱帯植物である稲の栽培に適していたとされる。私は「そうでか。自然発生的にコメを食べたのだ」と素直に信じていた。しかし、いろいろの書物を紐解くと、単純な話ではなさそうです。
田植えの時期は5月初旬から中旬。実って、刈り入れ時期はお盆過ぎ。稲の全生育期間は約3ヶ月という。その間の田圃は、基本的に“湛水状態”であらねばならないと聞く。しかし、自然のままで稲の全生育期間にわたって湛水状態が得られる土地が、どのくらいあるだろうか、というとさして多くないのだそうだ。
そもそも、田圃に張られた水は地下への浸透、田圃からの蒸発、植物体が根から吸い上げ、その葉や茎からから蒸発する。この3要素で減少する。その度合いは、1日に2センチ程度だとされる。田圃の湛水の深さについては諸説があるが、ここでは深さ約10センチとする。これで計算すると、雨が5日間降らぬと、田圃の水は消えることになる。
てなことで、田圃が欲する水量は、1日2センチで90日間となると、180センチとなる。千葉県における1年間の平均降雨量は140センチとの統計的な数値がある。すると、降雨即ち天水だけでは稲作経営は不可能であるということになる。
田圃の水を一様に10センチの深さで湛えるには、何よりも土地の平坦さが肝要である。この技術は、そう簡単ではない。
今の技術と機材なら、レーザーを用いて平坦を出せるという。古代や中世の昔、条理制が敷かれ得、田圃一枚あたりの区画は大きかったようだ。湛水の深さ10センチは、それ以下でも、それ以上でも駄目だと聞く。昔の人々は、この問題をどうクリアしていたのだろうか。
稲作初期の谷津田ならいざ知らず、どこまでも平坦で広い土地が、そうそう沢山あろうはずがない。そこで畦を作って区割し、水を湛える。これで万全と思いきや、そう単純なことではない。田圃の水は、中干しといって田の水を抜き、底土にひび割れさせ、茎が過度に生育することを抑え、且つ土壌の酸欠を防ぐ必要がある。こうした農法が、古代からあったか否か不明であるが、ともあれ田圃の水は、入れたり、干したりの繰り返しが必要となる。中干しして、ぎりぎりの処で一気に湛水させる。この作業は、自然の雨降り、即ち天水任せでは、そうは行かない。
要するに、水田稲作とは、施設農耕に他ならないのだ。一定区画の田の湛水の深さを、一様に10センチに保ついわゆる平面出しは高等技術を要する。広大かつ平面の水田に灌漑用水を供給する水路の敷設は、その水路勾配の一点をとっても容易ならざるもの。極めて高等技術だ。
これが、大宝律令下の八世紀には、日本列島の多くの場で行われていたということは、驚愕に値する。
今日、われわれ日本人の主食が、お米となっている歴史を振り返ると、単に四季があるとか、モンスーンとかに加えて、先人たちの沢山の汗と、数々の失敗の果ての結晶なのであった。
田植えの時期は5月初旬から中旬。実って、刈り入れ時期はお盆過ぎ。稲の全生育期間は約3ヶ月という。その間の田圃は、基本的に“湛水状態”であらねばならないと聞く。しかし、自然のままで稲の全生育期間にわたって湛水状態が得られる土地が、どのくらいあるだろうか、というとさして多くないのだそうだ。
そもそも、田圃に張られた水は地下への浸透、田圃からの蒸発、植物体が根から吸い上げ、その葉や茎からから蒸発する。この3要素で減少する。その度合いは、1日に2センチ程度だとされる。田圃の湛水の深さについては諸説があるが、ここでは深さ約10センチとする。これで計算すると、雨が5日間降らぬと、田圃の水は消えることになる。
てなことで、田圃が欲する水量は、1日2センチで90日間となると、180センチとなる。千葉県における1年間の平均降雨量は140センチとの統計的な数値がある。すると、降雨即ち天水だけでは稲作経営は不可能であるということになる。
田圃の水を一様に10センチの深さで湛えるには、何よりも土地の平坦さが肝要である。この技術は、そう簡単ではない。
今の技術と機材なら、レーザーを用いて平坦を出せるという。古代や中世の昔、条理制が敷かれ得、田圃一枚あたりの区画は大きかったようだ。湛水の深さ10センチは、それ以下でも、それ以上でも駄目だと聞く。昔の人々は、この問題をどうクリアしていたのだろうか。
稲作初期の谷津田ならいざ知らず、どこまでも平坦で広い土地が、そうそう沢山あろうはずがない。そこで畦を作って区割し、水を湛える。これで万全と思いきや、そう単純なことではない。田圃の水は、中干しといって田の水を抜き、底土にひび割れさせ、茎が過度に生育することを抑え、且つ土壌の酸欠を防ぐ必要がある。こうした農法が、古代からあったか否か不明であるが、ともあれ田圃の水は、入れたり、干したりの繰り返しが必要となる。中干しして、ぎりぎりの処で一気に湛水させる。この作業は、自然の雨降り、即ち天水任せでは、そうは行かない。
要するに、水田稲作とは、施設農耕に他ならないのだ。一定区画の田の湛水の深さを、一様に10センチに保ついわゆる平面出しは高等技術を要する。広大かつ平面の水田に灌漑用水を供給する水路の敷設は、その水路勾配の一点をとっても容易ならざるもの。極めて高等技術だ。
これが、大宝律令下の八世紀には、日本列島の多くの場で行われていたということは、驚愕に値する。
今日、われわれ日本人の主食が、お米となっている歴史を振り返ると、単に四季があるとか、モンスーンとかに加えて、先人たちの沢山の汗と、数々の失敗の果ての結晶なのであった。