私はここ3日間、伊豆の熱川温泉に来ていましたニコニコ



お母さんと慰労旅行です。


言っときますが、日記長くなっちゃいました。




まあ、慰労に来たので、私は何もしないでホテルでゆっくり露天風呂を楽しむのをメインにしてあまり出かけたくなかったのですが、お母さんが出かけたいモ-ドに入っていたので、結局ワニ園や川津さくら祭りに行き観光も楽しむ結果になりました。


今は帰りの踊り子ビュ-乗ってます。私はなんだかこういう観光新幹線がキライです‥ ガキくさいかもしれないけど、ツアー客のおじさんおばさん、無礼でやっぱり苦手です。


熱川に行く前に旅のお供の本を買おうと思ったケド、時間がなくて買えませんでした。

だから熱川に着いてからタクシーで山の頂上!にある本屋さんに行きました。
本屋さんはおばあさんと国語の宿題をしている孫娘がいて、棚の半分が空っぽでした。文庫本が書いたかったけど、全然無いので、とりあえず雑誌コ―ナ―に行ったら、《文藝春愁》があったので買ってみました。


ホテルに着いて、夕飯の前にとりあえず日本酒でも飲んで、体を柔かくしとくか。と思い、駅で買った地酒を飲みながら<文藝春愁>読んでました。

芥川賞受賞作品の川上未映子さんの作品が載ってて、(この人、ニュースで出てたウィッグ被ってた女の人か。。)と思って、インタビュー記事が載ってたから、まずそれを読みました。このインタビュー記事が私の休ませてた文学的好奇心を刺激して、一気に文学に浸りたいムードになった私は、(ちょうど川端康成の伊豆の踊り子を書いた旅館も近くにあるし、なんか温泉街=日本文学っぽいって事にして、贅沢に読書楽しも♪)

て決心しました。


それで、この3日間で夜寝る前とか、お母さんが露天言ってる隙に読んでたんですが・・

面白い部分が何個かあったから抜粋します。


<<受賞の言葉>>より。

「子どものころ、青いという字をじっと見て、ちっとも青くないことに驚いた。はっとして、わあ。あたりをぐるり見渡せば言葉は、物は、考えは、ほとんどそんな具合であるのだから、いったいこれは何だろう。言葉とそれが指し示すものとのあいだに横たわる断絶のようなものが、とてもいらいらするし、大変だし、それでもやっぱり何もかもがもうそれだけでいいと思ってしまえるくらいにそれは時に鮮やかに発光するのだから、言葉というものはたまらない。

(中略)

読む人と書いた人、そしてその真ん中にある文章の、このみっつにとって絶対的に美しい結ばれの場所が、気の遠くなるようなこの運動の途上(書くこと)にはきっとあって、それが見える。どんなことがあってもそこに行きたい。」



<<インタビュー記事>>より。

「人生論と哲学は違う。小説に描かれているのは圧倒的に人生論が多い。だけど、それでは自分が抱えている問いはクリアにならなかった。池田晶子や永井均のホンを読んだ時に初めて自分が何を問題にしてきてたが分かった。

 しかも、ひとたび自分の問題意識がわかると、それまで過去の偉人たちの思想を集めたパズルにしか見えなかった「哲学史」が急に生き生きと系統だって見えてきて、ニーチェやカントのことが腑に落ちるようになった。そして、現代に生きる自分は、この綿々と続く流れの先端に、いるんだと。」


川上さんは哲学を知ってる上で、人生論(小説)書いてるンだ。って事が分かりますね。

続いてこのような事も言っています。


「人は誰も当然のこととして、脳味噌の中の<意識>と、具体的な<体>という全く別物を抱えながらやってのけてるわけで、そこに特別なボーダーは感じない。哲学的な思索をしていてもお腹は減るよね、ということ。

(中略)

歌手になる前、おそらく子どものときから自分の人生がどうなるのかという気持ちを抱いていたが、本当の自分になるとか、自分探しをするという発想には一度もなったことがない。生は苦なり、生きていくことは基本的にしんどいものだと思っている。その代わり、社会的なアイデンティティや出来事にはあまり期待しない。自分が何になれるかではなく、自分が何をできるかにしか興味を持たないようにしている」



芥川受賞作品、「乳と卵」って、樋口一葉のように、見たこと、聞いたこと、感じたこと、目の前で起きていることが、カギ括弧も句点ももない一文の中に編みこまれている。この作品、川上さんが大阪の人だから言い回しが

大阪弁なんだけど、私が思うに、大阪の人と東京の人は、思考回路というか、頭の巡らせ方が絶対違う。。人が脳味噌の中の<意識>と抱え持つ<体>の部分が違うの。なんていうか・・・・、「体(てい)がいい」っていう

表現があるけど、あれはどんな意味だったかな。川上さんは<体>が好きな人で、つまり人間好きなんだと思う。



世の中の文学というものに、哲学、人生論、というジャンルがあるけれでも、川上さんが「植谷雄高の死霊を読んだ時に、この人は哲学と詩を同時にやっているんだと感動した。」あるいは「小林秀雄は哲学と芸術の間をやっている」というように、この川上未映子も、何かと何かのあいだをやっている。そうだね、やっぱり芸術と、何かの間だよね。



私は川上さんが「小さい頃青いという文字が全然青くないことに驚いた」と言ってるみたいに、言葉のたよりなさ知ってる。例えばいくら私が感情MAXで「大丈夫だよ」って言ったって、それは頼りないもの。それに言葉では表せない気持ちや、言葉では伝えきれない気持ちがあるもん。

なんていうか、<体>では説明できることなんだけど、なんかこうどう考えたって理不尽じゃん?!っていう物事を抱えなきゃいけないことってあるじゃん。そういうのって、人に説明できないでしょ?しても全部が伝わらなくて間違って伝わったりね。だから私は言葉にはできないことは人には説明しない。言葉がたよりないって事を知ってから、人に伝わらなくても大丈夫になったの。それはあきらめとかじゃないんだ。事実の元に思ったことだからね。それに私が求めてるのって、結局説明して人にわかってもらうようなことじゃない。ほんとのこと言うと愛だもんね。でもやっぱり言葉と<体>の距離が近い表現を出来る人は好きだし、そのことに興味があるし、私は人間好きなんだと思う。