クンダリニー上昇は「悟り」「解脱」とも言われているため人生観について書いてみました。
クンダリニー上昇は一生忘れえぬ強烈な体験でありましたが、人生観は変わりませんでした。意識が拡大し、世界と私との境が無くなると同時に、この世界がとても美しく愛おしく感じられ、生きていること自体、素晴らしいことであると実感しました。しかし、その経験から「来世はあるのか?」や「生きる意味は何なのか?」などの問題に対する答えが直ちに導き出せるわけではありません。
私の人生観は「人間とは何か」と「不思議な少年」マーク・トウェイン著という2冊の本に大きな影響を受けています。私の下手な文章より「人間とは何か」を読んだほうが余程わかりやすいかもしれません・・・
私たち人間は何者なのか? 特別な存在であるのか?
私たちが住んでいる地球は宇宙の中心にあり、人間は他の動物とは決定的に異なる万物の霊長という特別な存在で、さらに日本人は神に選ばれた特別優秀な民族である・・・と信じることができれば、誇らしい気持ちになれる。
しかし、科学は特別な存在ではないと主張する。進化論や遺伝子からみれば人間と他の生物との間に決定的な差はない。
また、原子より微小なレベルで観察すれば、生物も無生物も陽子・中性子・電子といった「同じ材料」でできており、それらの材料は物理・化学の法則という「同じ決まり事」に従って動いているのであろう(水も鉄も人の体も同じ材料でできているとは日常の感覚からするとちょっと信じられませんが)。
さらに、分子が集まり有機物ができ、高分子ができ、ついには自己のコピーをつくる高分子ができたという、生命誕生の歴史を見れば、生物を特別な存在と認めるのは困難である。
つまり、遺伝子のレベルから見れば人間とチンパンジーやハエとの間に本質的な差はないし、原子以下のレベルで見れば人間とイスやテレビとの間にも本質的な差異はない。
人間を含めた生物は複雑な機械に過ぎないのではなかろうか(機械論)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E6%B0%97%E8%AB%96
http://www.geocities.jp/nbsakurai/index.htm
http://www.s-yamaga.jp/nanimono/nanimono-hyoushi.htm
また、霊魂が存在し、霊魂は肉体が滅んでも永久に存続する、と信じる人がいる。
霊魂(人間の核心的・本質的な部分)が不滅であるとすれば、ある意味、人間は不死不老の存在ということになり安心できる都合の良い結論が得られるが、観測できないものを私は信じることができない(唯物論)。もちろん、私には前世の記憶などない。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/2989/tamsii.html
以上のように考えると人間としての誇り・尊厳あるいは安心が得られなくて、むなしく不安な気持ちになってしまうが、心地よい結論が得られないからと言って、理性的な判断を否定するわけにはいかない。
自分を特別な存在と考えるのは思い上がりではなかろうか。
では、機械であるところの人間は、どのようなプログラムに従って行動しているのだろうか。
意思によらない反射運動や無意識での行動もあるが、意思による行動はアメを得てムチを避けるようにプログラムされている。
感覚によるコントロール
ムチの例
怪我をすると「痛み」という不快な感覚が自然に湧き上がるように設計されていれば
→ムチを受けずにすむように、怪我をしないよう注意して行動する
→生存率が高まる
アメの例
性的快感が生ずるように人体が設計されていれば
→アメをもらうためにセックスする→遺伝子が子孫に伝わる
淘汰圧に負けないで遺伝子が生き残られるように、痛覚・視覚などの感覚を進化の過程で獲得したのだろう。
また、感情も同様に、淘汰圧に負けないで遺伝子が生き残られるように、進化の過程で獲得したと思われる。
感情によるコントロール
人類とその祖先は何百万年にわたり採取狩猟生活をしていたが・・・・
1人でいると「さびしい」という不快な感情が自然に湧き上がるように設計されていれば
→ムチを避けるために、チームを組んで行動する
→1人でいるよりも能率的に狩猟や肉食獣からの防御が可能
→生存率が高まる
狩で獲物を捕らえると「うれしい」という感情が自動的に生じるように設計されていれば
→快感(アメ)を得るために、再び狩を成功させように行動するだろう
→生存率が高まる
狩で獲物を逃がしてしまったら、「がっかり」という感情が自動的に湧き上がるのも同様である。ムチを避けるために次回の狩は成功させようと努力や工夫をするだろう。
恐怖・不安の感情が生じるのも生存率を高めるという同じ理由からである。
恋愛感情も自動的に湧きあがり、対象の異性を四六時中気になるようになる
→親密になれれば気分がよくなる(アメをくれる)
もちろん、遺伝子を子孫に伝えるために、恋愛感情があるのである。
淘汰圧から逃れ、生き延びて遺伝子を子孫に伝えるのに必要な行動を個体にさせなければならない。そのような行動をさせる為に、進化の過程で遺伝子は個体に感覚・感情を生じさせるようにしたのである。
もちろん、感覚や感情は遺伝子のみの産物ではない。
猫を生後すぐに縦縞だけしか見ることができない特殊な環境で飼育すると横縞には反応しなくなるという実験から分かるように、感覚(視覚)は遺伝子だけでなく「生後の環境」により補完される。感情も同様であろう。
ある行動からアメとムチが同時にもたらされる場合もあり、その場合、葛藤が生じる。
ダイエット 痩せることで得る心の満足感がアメ
飢えの苦しい感覚はムチ
買い物 その物を支配・占有できる心の満足がアメ
代金相当のカネを失うのがムチ
違法行為をやれと上司から命じられたが拒否した
良心の満足感がアメ
上司に逆らい組織内で孤立する不安がムチ
葛藤が生じる場合、アメ(プラス)-ムチ(マイナス)を計算し、
トータルでプラスと判断すれば、その生物はプラスになる行動をとる。
より複雑で多数の行動が選択できる場合には、行動ごとに計算結果をだし、計算結果を比べて、最もアメをえられるか、最もムチが少ない行動を選択することになる。
アメをえて、ムチを避ける
そのように人間の行動はプログラムされている(強制されている)。
生まれてから死ぬまで、人間は自分の心身の満足を目指した行動しかとることができない。
例外は無い。
困っている人を助けるという行動も、良心を満足させていい気分になれるから、あるいは、助けず見捨てれば後で後悔していやな気分になるから、それを避けるために助けるという行動をとるのである。すなわち、自分がアメをえるためか、ムチを避けるための行動である。
自殺もムチを避けるという意味で、心身の満足を得る行為といえる。
アメの正体は、脳の報酬系神経回路であるといわれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B1%E9%85%AC%E7%B3%BB
http://www.brain-mind.jp/newsletter/04/story.html
幸福は脳のある特定の状態なのであって、本当の幸福・偽物の幸福などはない。
足を切断したのに無いはずの足を幻肢痛で痛がっている人にとっては本物の苦痛であり、偽物の苦痛だから気にするなとはいえない。また、現実には不幸の原因がないのに不安感・絶望感を感じている鬱病の人には本当の不幸であり偽物の不幸ではない。
逆に、ドラッグや電気で報酬回路を活性化し、ラリっていたらそれは本物の幸福感・快感であり、偽物の幸福感・快感ではない。
通常の方法(欲望を満たすこと)で長期間にわたって幸福・快感を得るのは難しい。
例えば、生理的欲求を満足させたり、仕事・学業・スポーツで達成感・優越感を得たり、困っている人を助けて自己の良心を満足させても、その満足感は長続きしない。
人間はそのように創られていないからである。
性的快感は短時間しか続かない。健康で衣食住が足りている人であっても、快でも不快でもない、あえて言えば「ゼロ付近の感覚が」一日の大半を占めることになる。
他方、病気や事故で健康を損ねれば苦痛が一日中続くこともありえるし、貧困により飢えや寒さに長期間苦しめられることもありえる。
感情も同じで、幸福感は短時間しか続かない。オバマ大統領は選挙に勝った際には幸福感に溢れていただろう。しかし、半年もすれば薄らぎ、時たま思い出したときに幸福感が蘇る程度ではないだろうか。水泳競技で金メダルをとり「チョー気持ちいい」精神状態になったとしても、その気持ちは長期にわたって同じテンションでは続かないのではなかろうか。
1年後、歯を磨いたりヒゲを剃ったり身支度しているとき、あるいは、日常の仕事をしているときに突撃インタビューをして、「今この瞬間、どんな気分ですか?幸せですか?」との質問をすれば、幸福でも不幸でもないゼロ付近の感情と答える場合が多いのはないだろうか。
つまり、勝ち組であっても、一生の大半は「ゼロ付近の感情」で生活しているのではなかろうか。
他方、不幸は長く続く。子供を亡くした母親、重度のうつ病患者などは長期間、一日中悲嘆にくれているケースもあるだろう。
健康で欲を満たすことのできた勝ち組であっても、一生の大半は感覚・感情ともに快でも不快でもないゼロ付近の状態なのである。
おそらく、平和で豊かな日本では勝ち組・負け組にかかわらず、ゼロ付近の状態の人が多いのだろう。
なぜ、健康で欲を満たせてもずっと幸福感に浸っていられたいのだろうか?
個体は遺伝子の乗物に過ぎないという考え方がある。
遺伝子は自己維持と自己増殖に有利な行動を個体にさせるために、行動の指針となるよう感情・感覚を個体に与えたのであり、幸福感に浸らせてあげるために感情・感覚を付与したわけではない。使い捨ての乗物に過ぎない個体が幸福か否かなど遺伝子にとってはどうでもよいことなのだろう。
良くても一生の大半は「ゼロ付近」・・悪ければ、大幅にマイナス・・・・
遺伝子は、そのように感覚・感情が生じるように個体を設計している。
しかし、個体である私には不満である!!
幸せになりたい。
効率よく快感・幸福感を得るには、どのようにすればよいのだろうか?
前述のように、幸福も不幸も単なる脳の状態に過ぎない。報酬系回路を電気で刺激する方法やドラッグでも幸福感は得られる。
ただ、ドラックは快感も与えてくれるが、禁断症状では不快感もあるという。10快感が得られてもマイナス20不快があるとすればトータルで見れば損であり、これでは幸せになったとはいえない。
科学技術の進歩により、副作用・禁断症状がないドラッグ、あるいは電気刺激が開発されるかもしれない。実際、脳に電極を埋め込む治療行為も行われているそうで、電気刺激により幸福になることは現在の技術 でも可能なのだろう。
しかし、現状では、そのようなドラッグはなく、電極を脳の報酬系回路に埋める手術をしてくれる医者もいないだろうから、欲を満たして報酬系を活性化させるか、アルコールを飲むかくらいの選択肢しかなく、一生の大半をゼロ付近で過ごす人生で満足するしかない。
この点、クンダリニー上昇は幸福になる非常に効果的な方法である。
ねずみの脳に電極を差し込み、ねずみがボタンを押すと電流が流れ報酬回路を活性化する実験があるが、
私にとって、クンダリニー上昇はアメとムチの装置の調子をおかしくし、ボタンを押さなくても、勝手にアメがどんどん出てくるように、自分の体を改良することに他ならない。
ただ、クンダリニーを上昇させ瞑想をしていれば心身ともに快適な状態になれるとしても、毎日長時間、瞑想をして過ごしていたら、それは人生の浪費なのだろうか?
あるいは将来、副作用のないドラッグや快楽装置が開発され、一日中、幸福・快感に浸れる状態になれるとしても、皆はこの装置を使うのだろうか?「幸せになること、それだけが人生の目的なのだろうか?」「幸せになれれば、それでいいのか?」と考え、使わない人もいるかもしれない。
心身ともに快の状態にする以外に、「人生の目標・目的」「人生において成すべき事、生きる意味」はあるのだろうか?
何らかの目標や成すべき事があるとすれば、それに関係しない快楽装置などはくだらない玩具とも思える。
・ 自分の子供をつくって、立派な社会人に育て上げること
・ 他人の幸福に貢献すること
人により様々な人生の目標・成すべき事はあるのだろうが、根源的な人生の目標など存在しない。
少なくとも私は、神から「人生の目標」について啓示を受けたことなどなく自分が設定した目標しかない。
根源的な目標はなく、自分で設定したものに過ぎないとしても、価値ある目標は考えられないだろうか?
仕事や育児などで、人間社会の維持・発展に貢献すれば、一般的には立派な人と評価されるだろう。それにより、心が満足されるに違いない。
しかし、人間社会の維持・発展は「人生の目標」として価値があり正しい目標といえるのか?なぜ、人間なのか?人間など多数の生物の一つの種に過ぎず、特別な種ではない。宇宙人と交信できたと仮定すると、数学の公式や物理の法則は「正しい」と宇宙人にも認めてもらえるだろうが、人間社会の維持・発展などは目標として正しいとは認めてもらえないだろう。そもそも、なぜ維持・発展しなければならないのか?全生物が絶滅したら、なぜいけないのか?
どんな目標であっても、「なぜ?」「何の為に?」と問い続けると、答えに窮してしまう(ニヒリズム)。
「価値の存否」「美・醜」「善・悪」の概念は、全て脳の反応であり、そのような物理現象や存在というモノがあるわけではない。
例えば絵画や音楽を鑑賞して、感動や心地よい感情を生じさせる
脳の特定の部分が活性化すれば、それが美なのであり、絶対的な美などどこにも存在しない。多くの人間にとって美しいと感じられる絵画であっても、感性が人間とは全く異なった宇宙人にとっては醜と感じられても不思議ではない。
「価値の存否」も脳の反応であり、自分の感情・感覚を抜きに語ることはできない。
おいしい食べ物は価値があり、不味い食べ物は価値がない。
味覚抜きに食べ物の価値を語ることはできない。
戦争の悲惨なニュースを見聞きすれば、自分の心が暗くなるので戦争は価値がなく、人々の笑顔を見ると自分の心も明るくなるから平和には価値がある。
価値の存否は論理的に決まることではなく、感情・感覚により決まる事柄である。そして、感情・感覚は人それぞれ異なるものである。
このように、絶対的に価値のあるモノなどなく、誰にとっても価値ある正しい「人生の目標」など存在しえない。
自分の感覚や感情をもとに勝手に設定した目標しかありえない。なぜ、その目標を設定したかといえば、その目標を達成したらアメをもらえると考えたからに他ならない。結局はアメが欲しいだけ。
世界平和、全生物の幸せ、はたまた来世で天国に行けるように・・・・どんなに崇高にみえる目標や理想であっても、根っこは「アメが欲しい」ただそれだけである。
とするならば、瞑想による法悦により多くのアメを得られるとしたら、一日中、瞑想をして一生を過ごしても、無為な人生とは言えないのではないだろうか。
http://www.hitoiki.info/L04.htm
http://www.shinchosha.co.jp/books/html/439706.html
クンダリニーを上昇させて瞑想すれば、心身ともに快の状態になることは確かである。
しかし、幸せになれるといっても、私にとっては限界がある。
瞑想中は、チョー気持ちよく、これ以上よい精神状態はありえないと思っていても、あまりに長時間では飽きてしまい、一日中瞑想を続ければ苦痛になる。
また、当然のことながら、空腹感などのムチは避けることができない。
飽きるし、ムチは避けられないので、クンダリニー上昇は人間の究極の状態とはとてもいえない。
将来、飽きることなく一日中、幸福感・快感に浸っていられる副作用のないドラックや快楽装置が開発されても、やはりムチは避けられないだろう。
理想的な状態とは、どのような状態なのだろうか?
イスラム教の天国では、男性は72人の処女とセックスを楽しむことができ、また決して悪酔いすることのない酒や果物、肉などを好きなだけ楽しむことができるとされている。
あなたが想像する理想的な状態はどのようなものですか?天国や何でも願いをかなえてくれる魔法のランプが仮にあったら・・・
アメだけ大量にもらえて、ムチは一切受けない・・・そんな状態が永久に続くことが、理想的な状態とも思える。
しかし、アメをもらうのは、それ程意味があり大切なことなのだろうか?永遠に幸福感・快感に浸っていられる状態を想像しても、それが何だ・・・とも思う。
アメとムチは個体の行動をコントロールする為の手段として、進化の過程で創り出されたモノに過ぎない。
幸福・快感の正体は脳の特定の状態であり、自分の脳をある状態にずっと保つことに、何の意味があるというのだろうか?
このように、理性的に考えてしまうと、幸福・快感に意味を見出すことはできなくなってしまう。
ネズミの脳の報酬回路に電極を差し込み、ボタンを押すと報酬回路が刺激される仕組みをつくると、ネズミはボタンを押し続けるという。
ボタンを押すという無意味な行動をするように仕向けられて憐れである。
たとえ、どんなにアメを大量にもらえたとしても。
このネズミの実験は、人間の一生の縮図、人間の一生を単純化したもののように、私には思える。「進化しすぎた脳 」池谷祐二著には、ネズミをラジコンにしてしまったという話が書いてあるが、人間の一生そのものではないだろうか・・・
ネズミの実験ではボタンが限られているが、人間には多数のボタンが付いている。
全ての人間は、自己満足や優越感に浸りたいため、仕事・勉強・スポーツを頑張るというボタンを押し、心身の満足を得るために、異性とセックスするというボタンを押し、良心を満足させてよい気分になりたいが為に、他人に親切にするというボタンを押す。このように産れてから死ぬまで、アメを得、ムチを避けるために何らかのボタンを押し続ける。
(人間の好みは差異があり、同性愛者の人もいれば、捨て猫を助けるより蹴っ飛ばして痛めつけることにより心の満足を得る人もいる。このような人はもちろん同性とのセックスというボタンを押し、他人に意地悪をするというボタンを押すことになるが、アメをもらいたいからボタンを押すという本質にはなんら違いはない。)
アメが欲しくて夢中になってボタンを押し続けるネズミと何が違うというのだろうか?
ネズミと同様に無意味な行動をするよう仕向けられ、私を含めた全ての人間は憐れである。
自分の遺伝子を維持・増殖させること、あるいは人間社会を発展させることに何の意味があるというのか。「なぜ?何の為に、そんなことをしなければならないのか?」前述したように論理的な説明は見つからない。
アメとムチによる強制装置から抜け出して、自由な状態になることは可能なのだろうか?
アメとムチは行動の指針であり、行動の原動力である。
おいしいと感じるアメを得ることもなく、空腹感というムチも生ぜず、死への恐怖や親しい者との死別の悲しみというムチも生じなかったら、食べるという行動をとることはないであろう。結局、アメとムチの強制装置から脱却したら、飢え死ぬのではないだろうか(その前に、呼吸をしないことにより酸素不足、あるいは水分不足により死亡するかもしれませんが)。
アメとムチによる強制装置から脱却し「真の自由」を得たら、その後には、死しかないのか・・・
成瀬著「クンダリニーヨーガ」から引用すると・・
「ヨーガ行者にとっての理想状態は、マハー・サマーディ(大いなる悟り)であり、ムクティ(解脱)である。ムクティとは、人間としてあらゆる経験を経て、最終的に2度と人間として生まれてくる必要のない状態を言い、そのレベルに至ると、自殺ではなく自分の意思で人生を終える(死ぬ)ことがマハー・サマーディである。」としている。
アメとムチの強制装置から抜け出して死ぬ人生、あるいは、悟りきって自分の意思で死ぬのが理想的な人生とは、常識的な感覚からすると正しいとは思えない。
結局、理性的な側面からも感情的な側面からも納得できるような理想的な人間の状態や人生を私は想像することすらできない。
誰もが納得できるような人間の理想状態とその実践方法を指し示すことなど、私ごときには不可能だ。
何の因果か、「私」という自我が生まれた。
理性的に考えれば、宇宙の全ての現象は価値的に無色透明であるのに、私はアメとムチの強制装置に縛り付けられ、主に遺伝子の維持・増殖に有利な行動をとるように強制されている。
また、遺伝子は老いて死ぬように私の命を制限しておきながら、死への恐怖・不安の感情が生じるように私を設計している。
せめて、自分が生きた証を残したいと考え、子供をつくったり、後世に伝えられるような立派な業績を残したとしても、何億年という時間から見れば人類の存続など個人の一生と同様に短く限られたものなのだろう。
なんと理不尽な世界であろうか・・・
生きる意味(人生でしなければならない事)は無いと理性は主張するが、理性は自殺せよとも主張しない。
理性は価値中立的であり、どのように生きるかについて何の指針も示してくれない。
そもそも、どのように生きるか自由に選択できるように感じられるが、自由意志など人間にはないのかもしれない・・・おそらく、自然界の法則に従って行動しているだけなのだろう。
自由意志についてはリベットの実験が有名であるが、そんな脳科学の実験によらなくても、人間はアメとムチの強制装置に縛り付けられており自由がないのは明らかだろう。
このように私は悟りとは程遠い状態にあるが、
クンダリニーを上昇させ瞑想をしていれば、理性による考えは浮かんでこない、不安や恐怖などの負の感情も生じない、ただ、完璧に満たされた精神状態で世界の美しさ生きていること自体の素晴らしさを陶酔・恍惚のなかで感じるのみである。
私は元来、気楽な性格で人生の虚しさについて考えることはあっても、世の中そんなものだ・・・と諦めてしまい深く悩んだり苦しんだりすることはなかったが、クンダリニーを上昇させることができるようになって、ますます、世知辛い世の中であっても気楽に生きていくことができようになった。