今井町 今西家住宅

今井町 今西家住宅

神武天皇に協力し、県主(あがたぬし)の称号を賜わり、十市県主大目の娘を孝霊天皇の皇后として外戚を結び、吉野潜行に際し後醍醐天皇を警護し、戦国期今井庄を城塞都市化して信長軍と闘うも戦いを収め、自治権を許されて栄えた。建国の地かしはらより 悠久の風を!

家は住みながら育てて美しく熟成させていくもの!家にとって最も大切なのは、建造物や調度品を相続する事よりも愛着を子孫に引き継いでいくこと。その想いが「大黒柱」となり、家を支えていきます。
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今西家棟札『慶安参年参月廿弐日』銘(重要文化財附指定)が残っている通り、武家諸法度の厳しい規制の中再建を果たした日(1650年3月22日)です。
 惜しむらくは、(昭和ニ)1927年北丹後地によって、主屋西につながっていた牢屋と主屋南西の三階倉が倒壊したことで重文指定後の修復を果たせなかったことですが、明治維新後も引き続き今井町の市中取締役の任にあった当家十三代目当主今西逸郎が男爵位を明治政府から薦められたものの500円の資産基準に届かない程ひっ迫しており牢屋や三階蔵の修復がままなりませんでした。
 そんな折に今井町有志の方々の手弁当のボランティア精神によって、建物「やつむね」が倒れないようにと丸太二本で支え補強していただいたことは、何よりもの当家に対するねぎらいであり、いかなる勲章よりも価値がある誉れであったと祖父や父が生前語っておりました。
 後に今西逸郎が今井町近隣に持ち上がった鉄道駅建設計画に反対した英断によって今井町の乱開発が阻止され、町並みは残り、現在では国の指定重要文化財9件、県の指定重要文化財3件をはじめ、16世紀から20世紀まで多様な歴史的景観が残る今井町は、500軒余りの日本で一番多くの伝統建造物が残っている重要伝統的建造物群保存地区に選定されるにいたりました。
  当時の今西家当主も近視眼的な人達から近代化を遅れさせたと陰口を叩かれて今井町の行政から退きました。
奈良県には、法隆寺や東大寺をはじめとする木造建築物がありますが、まさに生活が現在進行形でそこに存在する今井町の古い町並みもまた木の文化を体現したものであります。
木の文化の源である奈良県からこそ消費社会に投げかけられる何かがあると思います。
 ニーチェが「独創とは、古いもの、古くから知られていたものや誰の目にも触れていたが見逃されていたものから観察し新しきものを見つけ出す知恵である。」と言っているように封建時代の自由都市今井町から知恵と発想の宝物探しがいっぱい詰まってるのでご来訪を待っています。
 先日来訪された吉田一平長久手市長は、今井町の町並みと隣組制度が残っているのがうらやましいと仰っていました。便利よりもむしろわずらわしいことが良いのだと力説されていました。





神武天皇は、兄磯城軍の磯城八十梟師が兵を結集していた磯城邑の片居(亦の名を片立。 旧十市郡安倍村大字池之内及び香久山村大字池尻付近と推定)を磐余(いわれ)と名付け、神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)と称した(日本書紀神武天皇二年二月乙巳条)。

兄磯城の勢力地域であった鳥見山は、即位後の神武天皇4年の春2月に皇祖神を祀った場所である霊畤(まつりにわ)と伝えられ、又即位後初めて皇祖天神を祀ったという日本書紀の記述から大嘗祭起源の舞台ともされる。

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今井町は信長包囲網の一環として一向宗に呼応して今井道場(後の称念寺)を中心にして環濠集落を整備し城塞都市化した歴史があって、倒壊寸前の称念寺を再興しなければ今井町の先人たち特に今西家の先祖に顔向けが出来ないという思いが 17代目今西啓師は並々ならぬ程確固たるものでした。
(寛永十三)1637年、6代目今西與次兵衞正次と弟の今西長兵衞正長が亡き父正冬(河合権兵衛清長)三回忌法要の供養として稱念寺へ寄贈した釣鐘が太平洋戦争の金属類回収令により供出されて無かったので、(昭和三十八)1963年に新たに釣鐘を新鋳し、再び寄贈することが叶いました。
また、(弘化二)1845年再建の稱念寺太鼓楼を財団法人今西家保存会 稱念寺太鼓楼修復積立金と橿原市の補助金によって、(平成八)1996年7月27日に尾田組が竣工しました。
ようやく、念願の称念寺本堂落慶法要を迎えることができました。
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