今井町 今西家住宅 The Imanishi of Tochiagatanushi clan Preservation Foundation

神武天皇に協力し、県主の称号を授かり、十市県主大目の娘を孝霊天皇の皇后として外戚を結び、南朝武将として後醍醐天皇吉野潜行の折にお見送り、戦国期今井町を城塞都市化して信長軍と闘うも戦いを収め、自治権を許されて栄えた。建国の地かしはらより 悠久の風を!

家は住みながら育てて美しく熟成させていくもの!家にとって最も大切なのは、建造物や調度品を相続する事よりも愛着を子孫に引き継いでいくこと。その想いが「大黒柱」となり、家を支えていきます。

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今西家五軒長屋ワークショップ開催中 #instagood #beutiful #bird #japan #nara #kashihara

The Imanishis Foundationさん(@imanishis_official)が投稿した写真 -

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重要伝統的建造物群保存地区・今井町において、5月7日(土)から15日(日)10時から16時まで第21回今井町町並み散歩が開催されており、重要文化財の公開・今井六斎市・茶行列・各種コンサート・フリーマーケット等が行われ、期間中毎年約5万人以上の来訪者が訪れます。

2011年東日本大震災の第16回今井町並み散歩の義援金を日本赤十字社に寄贈いたしましたが、熊本県の被災地に対して何か支援協力できないかを今回も模索しておりました。
そんな中、公益財団法人十市県主今西家保存会は熊本地震義援募金箱を設置して、熊本県へ義援金として寄贈する旨を決定いたしました。

重要文化財今西家住宅において、熊本県を勇気付けたいという想いを込めて、癒しの灯りをともす空間を株式会社カキモトさんがあんどんを各所にあしらって「町の幻想あかり」展を開催されております。なお、今回のために風情ある町並みをデザインした新作の今井町モチーフの行燈もお披露目されています。

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また、土間であんどんの灯りを鑑賞しながら、吉野山の「葛の御菓子 TSUJIMURA」さんの屋台と縁台を設置して、吉野葛きりをご賞味ご堪能いただければなによりです。

なお、今井町重要文化財今西家住宅へは、近鉄橿原線八木西口駅下車徒歩5分、JR西日本万葉まほろば線畝傍駅下車15分、自動車南阪奈道路から高田バイパス寺田ランプで降り、五井町交差点を越えて次を右折し、正面が今西家住宅。
なお、問い合わせは公益財団法人十市県主今西家保存会(0744-25-3388)へ。

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本日、三輪坐恵比寿神社の初市大祭の残り福にあやかりに家族で詣りました。
日本で最初に開かれた市場は、海石榴市(つばいち)と呼ばれる市で、三輪山の南麓の金屋という崇神天皇の都、磯城瑞籬宮跡があったところで初瀬川の川べりに物々交換の市として開かれましたが、延長4年(926)7月の大雨で、初瀬川が氾濫してその後、市は三輪の地へうつりました。
その昔、磯城邑には、海石榴市や箸墓古墳の近くの大市そして、十市御県坐神社の近くの遠市(十市)があり栄えていた事が伺えます。
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古来より、人々は天地雷鳴などの自然現象神憑りによって神からのお告げ(ご神託)をうけとった。
三笠山(若草山)の南、春日大社の東に、春日山と総称される山々がある。
現在、春日山原始林と呼ばれる照葉樹林におおわれた地域である。
この春日山の木々が何千本という単位で夏にもかかわらずいっせいに枯れるという事が、中世に幾たびかあった。
嘉元二(1304)年、鎌倉幕府は敢えて大和には守護を置かずに地頭のみを置いたが、興福寺の衆徒や僧らによって追放されるという事件があった。
幕府は興福寺の僧や春日神人を多数逮捕して、その所領に再び地頭をおいた。
この措置を嘆き悲しんでいたところ、春日山の木々がいっせいに枯れてしまい、人々は託宣どおり神がアメノミヤにお帰りになったのだと噂した。
この話が関東の幕府に伝わり、驚いて地頭を撤廃することにしたが、その決定が大和に伝わる前に、夜中に四方八方の雲が光り、風が吹き、雨がそそぎ、星のような光が次々と飛来して春日社に入り、神の帰坐を示したことが「春日権現験記」に記されている。
その後、幕府は神の怒りを放置しておく訳にはいかず、神楽を奉納し、興福寺の要求を聞き入れ神の慰撫につとめた。

興福寺は、春日社の神木を動かして朝廷をも威嚇し、要求を貫徹させてきた。
ここでいう神木は、神主が運べる程度の大きさの榊に神の依代である鏡を取り付けたものであるが、威嚇の第一段階として、興福寺の僧たちは春日の神を神殿から呼びだして鏡に付け、神木を春日社内の移殿(うつしどの)に移した。
ここで要求がいれられれば神は元の神殿に戻ることとなるが、いれられない場合、第二段階として神木は春日社を出て興福寺の金堂に移された。
ここでも尚、威嚇の効果がないとき、いよいよ進発ということになり、神木は何百何千という神官、楽人、僧などのお供を伴って京へ向けて出発した。途中、木津を経て宇治では平等院に入ることが多く、ここから聞き容れられれば引き返すこともあった。
京では、藤原氏の勧学院長講堂などに入った。

神木の入洛(じゅらく)とは、藤原氏にとって氏神が身近にこられたことであり、日常の業務を離れて神に奉仕することが必要になる。朝廷には源氏橘氏など他姓の貴族も居たが、藤原氏が圧倒的に多く、神木上洛は政務をストップさせるものであった。
従来幕府は、「神木動座」があると朝廷を通じて興福寺と折衝してきた。幕府が自らの判断と責任で直接興福寺を抑えにかかることは、決して無かったのである。



興福寺五重塔
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今年880回目の「春日若宮おん祭り」をお迎えした。

鎌倉時代になると他の諸国では幕府によって守護や地頭がおかれたが、大和には敢えておかなかった。
幕府もまた興福寺の支配権を事実上認めていた証しである。

興福寺が大和に対して強い力を振るうようになったのは、さまざまな理由があるが、その中でも最も重要なものとして、大和の武士団を一つに束ねまとめるために「春日若宮おん祭り」をはじめたことである。

おん祭りは、興福寺の大衆(だいしゅ)によってはじめられ、大衆たちが所領を引き続き確保する目的のもとに、年に一か所に集って若宮の加護を祈る共通の場としておん祭りをはじめたのである。

おん祭りが大和国全体を挙げての祭りであったことは、祭りの挙行に先立って大和にある四隅に春日神人(かすがじにん)を派遣して、準備周到であったことからもうかがえる。
おん祭りの費用や仕事が興福寺の大衆や興福寺に連なる人々によって分担されていることによくあらわれており、その身分や地位に応じて田楽や競馬などの費用を負担しあった。
摂関家からの奉幣使といわれる「日使」(ひのつかい)は興福寺の楽人であった。
また、おん祭りの費用を負担したのは、僧や武士や楽人だけでなく、「助成」(じょじょう)や「」(とぶらい)とよばれた贈与・援助が活発に行われて、支えられてきた。

おん祭りがはじめられた当初から、大和士(やまとざむらい)によって流鏑馬十騎が奉納されてきた。
ここでいう大和士とは、今西家の先祖である十市氏を首領とする長谷川党、箸尾氏を首領とする長川党、筒井氏を首領とする戌亥脇党、楢原氏を中心とした南党、越智氏を中心とした散在党平田党の六党をいう。
しばしば、流鏑馬の順番をめぐって筒井氏と十市氏が刃傷沙汰をおこし、興福寺別当が頭を悩ましたようであるが、争いを避ける方法として稚児を流鏑馬に登用して、武士のメンツを立てて解決したのである。



春日若宮神社
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条里制の基幹線である中街道 (下ツ道)を西に延長していくと、今井町の本町筋に合致し、今井町を形成計画していく上での中心線となっていて、ほぼ長方形の区域の中に東西南北方向に方眼状に道路を配し、町並みや街路の形状は町造りの始められた頃の区画が今も残っている。
街路は町の端から端まで通り抜けのものではなく、入口において道幅だけ屈曲しているか、途中で丁字型に突き当たっていて、見通しのできないように配備されている。
今西家住宅北側の道路の本町筋では、住宅建物だけが北側の道路に突出していて、東西両端で道が大きく南に屈曲していて、前方の見通しが悪く、今西家の前を通る道路は、この角で折れ曲がって小さい枡形を形成し、二階の窓は町内の道を真っ直ぐに見通す位置につくられている。その機能も意匠も物見櫓とよく似ているが、この家の性格を示している。
町内より外部に通じる通路は、東面に3門、南面に3門、西に1門、乾方向に1門、北に1門の9つの門があり、夜は4つの門のみを開け、外来者が町中にみだりに入ることを拒んでいた。
もし外来者が今井町内で宿泊する必要のあるときは、その都度、町年寄へ届出を必要としていた。(今井町wikipediaより)



塗籠(ぬりごめ)の連子窓(れんじまど)を設け警備監視


二階窓より本町筋を望む

1575年織田信長により武装解除以後、外敵の見張りあるいは町内の動向を2階座敷北と東の両面に塗籠(ぬりごめ)の連子窓(れんじまど)を設け警備監視していた。
現在は、奈良県教育委員会の補助のもと監視カメラを設置完了しました。



監視カメラ設置
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今西正盛肖像画

本日10月12日は「芭蕉忌」 大和今井町は江戸時代に最盛期を迎え経済的に豊かになった町民は、武野紹鴎に茶道を師事した今井宗久・宗薫父子や三条西実隆に和歌を師事した十市遠忠などの影響を受け文化芸術的気運をつくりあげる好条件に恵まれました。
1667年(寛文7年)、今西家当主・今西正盛編集の句集『耳無草』(『詞林金玉集』)に今井町に立ち寄り交際の深かった若き松尾芭蕉が発句しています。 芭蕉が若くして俳諧の道に進んだばかりの頃です。
最初に師事したのは貞門派の北村季吟で、その後江戸に出ていき道を究めていきます。

(発句)「夕顔の花に心やうかりひよん」芭蕉
 うかれける人や初瀬の山桜(続山井)
「うかりける人を初瀬のやま颪はげしかれとは祈らぬものを」(千載集)の上三句をもじった。  (松尾芭蕉年表より抜粋)
芭蕉年表に江戸時代の短冊目録に今西家7代目当主・今西正盛(元和1622年8年~寛文8年1668年4月29日)の名前が見られます。
初句は「越後鮭」
現在、岸和田市が管理している佐々木勇蔵コレクション短冊目録のコレクション601番で閲覧が可能との事です。


10月12日、松尾芭蕉は、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残して客死しました。
なお、「秋深き 隣は何を する人ぞ」は死の床に臥す直前に書いた句と言われています。
「昨日の発句は今日の辞世、今日の発句は明日の辞世、わが生涯の一句として辞世ならざるなし」


#今井町 #松尾芭蕉ゆかりの地

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