今井町 重要文化財 今西家住宅 / (公財)十市県主 今西家保存会 Weblog

神武天皇に協力し、県主(あがたぬし)の称号を賜わり、十市県主大目の娘を孝霊天皇の皇后として外戚を結び、吉野潜行に際し後醍醐天皇を警護し、戦国期今井庄を城塞都市化して信長軍と闘うも戦いを収め、自治権を許されて栄えた。建国の地かしはらより 悠久の風を!

家は住みながら育てて美しく熟成させていくもの!家にとって最も大切なのは、建造物や調度品を相続する事よりも愛着を子孫に引き継いでいくこと。その想いが「大黒柱」となり、家を支えていきます。

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今井町重要伝統的建造物群保存地区は、東西約600m、南北約310m、面積にして約17.4haの規模となっており、地区内には伝統的建造物として、国の重要文化財が9件、県指定文化財が3件、市指定文化財が5件と建築物が504棟、工作物が119件、環境物件が69件あり、全国で最も多い地区となっています。

この今井町において、5月13日(土)から21日(日)の一週間余り10時から16時まで第22回今井町並み散歩が開催されており、重要文化財の公開・今井六斎市・茶行列・各種コンサート・フリーマーケット等が行われております。

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重要文化財今西家住宅において、癒しの灯りをともす空間を華倭里行燈さんが室内とお白州と土間にあんどんをあしらって「町の幻想あかり展」を開催されております。なお、今回のために風情ある町並みをデザインした新作の今井町「やつむね」モチーフの行燈も展示されています。


また、吉野山の葛の御菓子TSUJIMURAさんの縁台を設置して販売もしております。


なお、今井町重要文化財今西家住宅へは、近鉄橿原線八木西口駅下車徒歩5分、JR西日本万葉まほろば線畝傍駅下車徒歩15分、自動車は南阪奈道路から高田バイパス寺田ランプで降り、五井町交差点を越えて次を右折し、正面が今西家住宅。

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戦国時代からずっと今西家が盾になって一向宗道場である称念寺を守るように塞がれていた御堂筋は、明治10年(1877年)明治天皇御行幸の際に県に無償貸付け(橿原市今井町3丁目679-3、296-4、296-6、295-2)して道路として開通させ、後に今井都市緑化事業の協力のため今西家南西部(橿原市今井町3丁目679-3)も無償貸付けし、今西家の茶室があった西部(橿原市今井町3丁目679-1、644-2、644-14)を今井児童公園として橿原市に寄贈させていただきました。 
戦時中、今西家南側に織田信長公本陣跡の祠が建っていましたが、残念なことに第二次世界大戦さ中の戦火を危惧して父と高祖母が焼却撤去してしまいました。

また、橿原市の今井都市緑化事業として今西家の前の西口環濠跡を整備する為に、戦後大蔵省の所有となっていた土地を橿原市に払い下げる段取りを付けて整備しましたが、地下水位の整備は現代の土木技術を持ってしても断念せざるを得ない結果になって、残念ながら景観のみの整備に終わってしまいました。

このように、春日神社から八幡神社まで一帯の西側の環濠を守ってきた者として、一貫して行政に協力し景観を保全してまいりました。
都市緑化事業のための無償貸付けの契約の際に、父の旧制畝傍中学校の同級生で遊び友達だった三浦太郎橿原市長から子孫のために駐車場運営を提案されたのを、志しに反すると拒否したと聞きました。
かつて、勲章を断った今西逸郎の教えがあったからこそ自ずと、こころざしが引き継いでいたのだと思います。

現在、今井町の玄関口である今井蘇武橋公園と今井町南西部旧環濠の都市緑化が整備され感慨ひとしおです。
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南西部環濠跡都市緑化事業
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今井蘇武橋公園
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 幕末になると今井町は、重税により衰退に向かい、明治維新の廃藩置県制度よって大名貸付金凍結し、大名貸しなどの富豪は消滅してしまいました。
しかし、今井町は依然南大和の中心地であり、明治初年には奈良県出張所が置かれました。
奈良県再設置問題がおこった時もその庁舎の位置について現在の奈良市を外し、今井町に設置しようとする有力な動きがありましたが、実現しませんでした。
   明治時代の鉄道開通の際、今井町に持ち上がった鉄道駅建設計画に明治期も引き続き市中取締役の任にあった今西逸郎正厳が新政府の計画に断固反対したことから、隣町の八木町に畝傍御陵御参拝のためにつくられました。(畝傍駅として開業) 
 
   幕末期そして、明治という激動の時代を駆け抜け、新政府から推奨された男爵叙勲を辞退し、己れよりも環濠に囲まれた今井町の秩序を護ろうと新政府と対峙したからこそ、現代にこの町並みが残りえたことに事を誇りに思っています。

   しかし当時、今井町の一部の方から近代化都市化が遅れたとする噂を聞き及び、以後一切今井町の行政からしりぞき、子孫へも「政治にはかかわること勿れ」と遺言をのこしました。
また、私の祖父は、先の大戦で二等兵として戦地に赴き、辛い目をした時に曾祖父さんが叙勲してくれていたら士官だったのにと嘆きましたが、同じ隊の今井町出身の方に陰ひなたとなって助けられたと感謝しておりました。
ぼんは、後ろにと言って身代わりになって亡くなってくれたと!
先祖の徳のお陰で生きさせていただいていると終生言っておりました。

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   今井町において環濠の存在が重要な役目を果たしてきた経緯と環濠の重要性について歴史的背景から説明してまいりたいと思います。
   今西家の旧所領地である南西部の現・春日神社から北西部の八幡神社にかけて環濠を深くし、三重の堀にして強固な備えとしたからこそ、織田信長軍の武力に対して半年余りも持ち堪えることが出来ました。(16世紀中頃から後半にかけ、東西450メートル、南北250メートルで2重や3重の濠を設けたとされる。外濠は信長に降伏後、家臣の明智光秀が埋めたとされる。)
 明治初年頃まで残っていた町の入口に番屋まで付属した9つの門(東側3ヶ所、西側1箇所番屋付設、南側3ヶ所、北側2箇所)と環濠は、自治都市としての特権のシンボルであり、これらの門は朝6時から夕方6時まで開閉され、夜間は4門のみを指定して吟味の上出入りさせておりました。
特に、本町筋の西門は、番屋を建てて門番を置き厳重なのものとし、環濠によって安全を確保し、商人が安心して自由取引市場を展開することが出来ました。
   このように、今井町にとって環濠が暮らしの中で根付き、町並を守ってきた要因であり、もし、環濠が存在していなかったら現在の町並も残っていなかったのは、周知の事実ではないでしょうか。
町の安全だけでなく、生活排水と地下水位の調節機能を果たしてきました。
   父は生前、利便性から環濠を埋めて、道路にしてしまって地下水位が上昇して、地震が起きたときの浸水や液状化の心配をしておりました。
橿原市の今井都市緑化事業として今西家の前の西口環濠跡を整備する為に、戦後大蔵省の所有となっていた土地を橿原市に払い下げる段取りを付けて整備しましたが、地下水位の整備は現代の土木技術を持ってしても断念せざるを得ない結果になって、残念ながら景観のみの整備に終わってしまいました。
   今後も今井町先人の遺志を引き継ぎ、歴史的背景と共に伝統技術等を後世に残すことが文化遺産を継承していく者の使命と自覚し、一貫して景観整備や町並保存の事業に協力をしてまいる所存です。

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小野忠明肖像画
  
  先祖は大和の豪族・十市氏で、安房国朝夷郡丸山郷神子上の郷士で里見氏の家来。曽祖父の神子上大藏は里見十人衆頭600石。祖父の神子上庄藏は100石で天文3年(1535年)の犬掛合戦で木曽新吾と相打ちで死亡(『房総里見軍記』『里見九代記』)。父は神子上重(神子上土佐)。母は小野氏。「御子神とは、神の子という意味で、大国主の子である事代主の末裔の十市氏の祖先からか。」
   なお元来、十市家は、天正二(1574)年4月14日、柳生石舟斎宗厳父子、筒井順慶と敵対していた十市遠長と入魂にする。(『多聞院日記』)と記せられているように柳生家と昵懇であった。
   御子神典膳は、はじめ里見義康に仕え、若いころから剣客として知られ「安房の無双の太刀取り」と言われ数々の戦で名をあげていたが、兵法者、伊東一刀斎との手合わせで1尺ほどの棒きれを持った一刀斎に典膳は太刀で挑んだが子供あしらいのように惨敗したのをきっかけに、伊東一刀斎に弟子入りして、兄弟子に当たる善鬼を打ち破り、一刀斎から一刀流の継承者に選ばれたとされる。
   文禄2年(1593年)、伊東一刀斎の推薦で徳川家康に仕官して200石の禄高を与えられた。二代目将軍徳川秀忠付となり兵法、剣術の師となる。
母が方の性「小野」と秀忠の「忠」をもらい「小野次郎右衛門忠明」と名を改め、小野派一刀流の開祖となり柳生新陰流と並び徳川家の二大流派となった。
 慶長5年、関ヶ原の戦いでは真田幸村守る上田城を攻め勇戦した7人(これを世に上田の七本槍)の一人でもある。
 実戦を重視した典膳の剣は無敵の強さを誇ったと言われ、大瓶の中に隠れた罪人を瓶ごと真っ二つに斬り裂き「瓶割り典膳」と言われた。
柳生宗矩と仕合をした際に真剣に対して、一寸八尺ばかり(約55センチ)の薪の燃えさしで応戦、宗矩の服をススだらけにし、柳生十兵衛さえも降参したという逸話(一刀流三祖伝)が残っている。
通常、将軍家の師範役という立場をわきまえて、他流試合などは受けなくなるが、宮本武蔵が二度目の江戸入りをした際、柳生宗矩が武蔵の挑戦を避けたのに対し、忠明は自分から武蔵に挑戦状を叩き付け、武蔵が恐れこれを避けたという。
   御止め流「治国平天下の剣(活人剣)」を説いた柳生新陰流の考えとは対照的で、典膳の剣は「無想剣」といわれ、天下太平の世もあくまで剣術に拘り相手が、将軍でさえも容赦しなかったという。
   そして、徒手空拳自らの力だけを尊重していた小野忠明の墓石に先祖大和国十市氏と刻まれているのは、如何に十市一族の吉備津彦命やヤマトタケルらを尊敬して支えにしていたかがうかがえると言える。
   最後に、剣豪に関する武勇伝は事実が多少誇張着色されていることを断っておく。
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小野忠明の墓
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江戸時代の大和には、多数の名産品が存在しました。
奈良盆地での稲作は、畑や田地でも盛んに行なわれていましたが、木綿が高収益を期待できる商品作物として、稲と競合するように作付けされるようになり操綿屋が盛んになりました。

また、盛衰してしまった奈良晒(ざらし)は、越後上布に勝るとも劣らない最上の麻製品で南都随一の産業となりました。
奈良町を中心に織り出され加工された高級麻織物は、江戸幕府の御用品にも指定されて統制と保護が加えられるほど栄華を極めました。武士や富裕な町人の裃などの礼服や夏向きの衣料として重宝されていました。

17世紀末には、吉野での杉や檜の育成林業が行われるようになり、杉丸太を中心とする杉、檜の商品化に対応して、材木の流送路であった吉野川筋の筏流しも盛んで活気がありました。杉を材料とする樽丸生産も盛況を極めました。
あと、江戸時代初期に中院町の浅田兵助が酒の中に米麹を浮かせたあられ酒(味醂酒)を考案し、糸屋宗仙という医者が瓜を南都諸白の糟(かす)に漬けて作ったのが糟瓜(奈良漬け)のはじまりです。
奈良筆は古来より言うに及ばず、松井元泰が研究と改良に心血を注いだ古梅園の製墨や春日大社神官の内職として発展したのが、団扇と一刀彫り人形です。
その他、利休好みの生駒高山の茶筅、桜井三輪の素麺吉野葛赤膚焼の陶器生産、柳沢吉里の郡山藩で盛んとなった金魚の養殖などなど。
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そしてなににもまして、武士道の真髄も大和からです。
柳生新陰流、十市県主今西家の系譜を継ぐ御子神典膳こと小野忠明の小野一刀流。
ともに将軍家指南役です。
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第七代孝霊天皇とその家族の皇后の細媛命(十市県主祖大目女)、吉備津彦命(桃太郎?)、倭迹迹日百襲姫命(親魏倭王卑弥呼?)らには伯耆・吉備・讃岐の各所において鬼退治伝説などの足跡が残っています。 
2世紀後半に天変地異が起こり国が乱れて、国譲り後も独自の支配を続けていた出雲に不穏な動きを見てとり、大和朝廷は鬼退治の名目で吉備から日野郡に侵入しました。これは、単なる紛争ではなく、砂鉄資源をめぐる出雲と吉備大和の争奪戦であると考察することが出来ます。

鳥取県西伯郡伯耆町宮原の楽楽福(ささふく)神社には、鬼住山(きずみやま)の大牛蟹(おおうしかに)と乙牛蟹(おとうしかに)という鬼の兄弟を征伐したという伝説が残っています。
鬼住山の南にある笹苞山(さすとやま)に陣を張って鬼退治をした話で、村人が献上した笹巻きの団子を三つ並べて鬼をおびき出し、そこに登場した弟の乙牛蟹を矢で射止め、その後刈り取った笹の葉を山積みし、その兄の大牛蟹を追い出した場所であることから、その名がついたとも言われています。
社伝では孝霊天皇は幼少時「樂樂清有彦命(ささきよありひこのみこと)と称し、(ささふく)号されました。
古くは砂鉄生産の護神して、また日野郡開拓鎮護の総氏神として日野大社笹福大明神と尊称され崇敬されました。
孝霊天皇が当地に巡幸された折、林山(きりんざん)の(ぎゅうき)」という一団が里人を悩ます由を聞き、皇子達や従者を率いて退治し、楽楽福神社境内近くにある鬼塚はその首魁を埋めた場所と伝わっています。
また、孝霊天皇が近郷に居ると聞き付けた牛鬼らが兵を起こして天皇を襲撃しようとしたので、歯黒皇子(または吉備津彦)を軍将として大軍を出し征伐した伝説も残っています。
磯城県主(日本書紀では十市県主)大目の娘で孝霊天皇の皇后である細媛命が当地で没したと伝えられていて、命日(孝霊天皇即位71年辛巳4月21日)も伝わり、裏山の崩御山が皇后の御陵であると伝わっています。

なお、鳥取県にある楽楽福(ささふく)神社のうち、日野郡日南町宮内の楽楽福神社(通称・東楽楽福神社)と西楽楽福神社、日南町印賀の印賀楽楽福神社、西伯郡伯耆町の楽楽福神社、西伯郡南部町の楽楽福神社、米子市安曇の楽楽福神社があるが、いずれも祭神として大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)を祀っています。

東楽楽福神社は、東伯耆行幸伝説に由来する孝霊天皇奉斎神社。祭神は「若建吉備津彦命、大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、細姫命、福姫命」などを祀る(『鳥取県神社誌』544)。「奥日野大社」という。大吉備津彦命(彦五十狭芹彦命)と若建吉備津彦命(稚武彦命)がこの地を平定し、その若建吉備津彦命の功績により、若建吉備津彦命を祀ったという。あるいは孝霊天皇が皇后細媛命、皇子歯黒命(彦狭島命ひこさしまのみこと)と共に伯耆に行幸し邪鬼を退治したあと、天皇の行宮が東の楽楽福神社で、皇后(あるいは皇子)の行宮としたのが西の楽楽福神社であるという。境内社の若宮神社は「欝色雄命、大水口命、大矢口命」を、今宮神社は「磯城県主大目命」を祀る。(『鳥取県神社誌』544、546)

西楽楽福神社は、伯耆行幸伝説に由来する孝霊天皇奉斎神社。祭神は「大吉備津彦命、大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、細姫命、彦狭島命」などを祀る(『鳥取県神社誌』546)。大吉備津彦命と若建吉備津彦命がこの地を平定したことにより大吉備津彦命を祀ったものという。あるいは孝霊天皇行幸伝説があるが、東楽楽福神社の項目を参照。近隣に崩御山があり、大吉備津彦命の陵墓という(孝霊天皇行幸伝説では皇后の陵墓とされる)。境内の若宮神社は「稚武彦命、磯城県主大目命、蝿伊呂杼命」を祭り、今宮神社には「大矢口命、大水口命」を祀る。

宮原楽楽福神社は、孝霊天皇の長子である鶯王を大将に鬼住山を攻めた際に宮原にて鶯王は戦死する。孝霊天皇の陵墓と伝わる当地の古墳は、鶯王のものであると伝わる。もと前方後円墳とも円墳とも言われているが、残念なことに1920年(大正9年)の伯備線開通および国道181号線の開削によって削り取られ、現在の姿になったという。ただし学問的調査はなされていないようだ。(宮原楽楽福神社境内由緒書)

菅福神社(すげふくじんじゃ)は、伯耆行幸伝説に由来する孝霊天皇奉斎神社。祭神は「大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、細媛命、阿礼姫命、吉備津彦命、百襲姫命、稚屋姫命、彦狭島命、稚武彦命、福姫命」などである。当初、皇宮大明神(こうぐうだいみょうじん)と称していたが、1868年(明治1年)に高宮社と改称、1920年(大正9年)に「菅福神社」と改称した。(『鳥取県神社誌』532)
孝霊天皇、皇后細媛ともに伯耆に行幸し、牛鬼を退治した。このとき行宮としたのが当社の地である。細媛命は五月のなかばに巡行中の天皇の跡をお尋ねになる途中、お産の悩みがあり日野川の石の上で休憩されたときに雨が多く降り里人は畏みて菅の蓑と笠とを奉(たてまつ)った。増水した川の水音が高く聞こえた為、皇后が「水音喧(みずおとかま)」と仰せになると水の音がたちまち止んだと伝わっている。よって、日野川のこの流域(日野町上菅)は「無川(おとなしがわ)」と呼ばれるようになったという。その後、仮宮を設け福媛を出産して13年間お暮らしになった。15歳の時、印賀の地でえんどう豆を採りに行かれた時に、竹の端が目に突き刺さって目が大きく腫れ上がって様態が悪くなって看護もむなしく、薨去されてしまった。貴宮山の麓に埋葬し福媛命を祭神として印賀楽楽福神社を造営した。

鳥取県西伯郡大山町宮内の孝霊山(皇霊山、高麗山)の麓に坐します「高杉神社」には、奇祭「うわなり祭り」が残っています。孝霊天皇に仕えた松媛・千代姫の霊が孝霊天皇皇后の細媛命に嫉妬して祟りをなした。そのため、それぞれを一の御前社、二の御前社、三の御前社に祀ったという。これにちなんで嬲(うわなり)神事が行われる。
祭神は「大足彦忍代別命(景行天皇)、大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、押別命、本媛之命、松媛之命、千代姫之命、小葉枝皇子、大葉枝皇子、根鳥皇子、天照大御神、武速須佐之男命、誉田別命」を祀る(『鳥取県神社誌』)。

本宮神社(備中吉備津神社境内)は、備中吉備津神社の境内社。備中吉備津神社祭神大吉備津彦命の親族を祀る。祭神は「大倭根子彦賦斗迩命(孝霊天皇)・大倭玖迩阿礼比売命(母神)・細比売神」。

備前吉備津神社は、備中吉備津神社の分社で相殿に孝霊天皇を祀る。祭神は「大吉備津彦命」を主祭神に「吉備津彦命、孝霊天皇、孝元天皇、開化天皇、崇神天皇」などを配祀する。

備後吉備津神社は、備中吉備津神社の分社で相殿に孝霊天皇を祀る。祭神は四道将軍「大吉備津彦命」を主祭神として、「大日本根子彦太瓊命、細比売命、稚武吉備津彦命」を配祀する(神社ウェブサイト)。

孝霊天皇陵 讃岐一宮伝承地は、孝霊天皇陵の伝承地で一宮寺(いちのみやじ)にある。孝霊天皇・倭迹迹日百襲媛命・彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、吉備津彦命)の一宮御陵といわれる供養塔がある。もと讃岐一宮田村神社にあったもので神仏分離のとき遷されたものともいう。田村神社社伝によると倭迹迹日百襲媛命は彦五十狭芹彦命とともに讃岐を平定したとされる。父天皇を慕って祀られたとする。

孝霊神社水主神社境内社)は、孝霊天皇奉斎神社。水主神社は倭迹々日百襲姫を祀る神社であり、その父天皇として祀られているものと思われる。
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龍王山城北城

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龍王山城南城

 

 先祖の戦国武将歌人といわれた十市遠忠公の大和一の面積を誇る中世城郭・龍王山城より大和盆地から大阪湾や明石大橋までも一望できます。

 十市遠忠は三条西実隆ら公家とも頻繁に交際し、和歌、連歌、書をたしなみ文化人としても名を馳せ、龍王山城北城付近で自然石を組み合わせた枯山水の庭園遺構も見つかっています。

 また、茶道にも通じ能阿弥の影響を受けた書院台子の茶儀を重んじ、嫡男の遠勝が松永久秀を城に招き茶をもてなして影響を与えました。

 十市県主の一族である孝霊天皇ゆかりの纒向石塚古墳や箸墓古墳そして、竜王山麓の衾田稜(ふすまだりょう)を龍王山古墳群が守るようにとり囲むこの地で、城を築こうと決めたのは、一族の誇りを賭けて余程の覚悟の上に他ならないでしょう。

衾道(ふすまぢ)を

引手(ひきて)の山に

妹(いも)を置きて

山路(やまぢ)を行けば

生けるともなし
」 (柿本人麻呂 巻2-212)

訳:
衾道を、引手の山中に妻(の墓か霊魂)を残して山路を行くと、生きていく気がしない。(212)
家に戻ってきて嬬屋(つまや)を見ると、妻の使っていた木枕(こまくら)が、床の外の方に向いてころがっているのだった。(216)

説明:
引手(ひきて)の山は龍王山のことで、衾道(ふすまじ)は、この近くに「衾田陵(西殿塚古墳)」(6世紀前半の継体天皇の皇后、手白香皇女の墓として管理しているが、3世紀末のヤマト王権の大王墓とする説が有力で、行燈山古墳に被葬されているとする崇神天皇か邪馬台国・台与の陵墓ではないかと推定されている)と呼ばれている箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫命)に次ぐ古い陵墓(前方後円墳 全長220m)があることに由来します。

「火の路」(松本清張)で龍王山古墳群を「死の谷」と呼ばれていましたが、神々の住む世界へ帰り、子孫たちを見守るってくださってるのでしょう。
 

 

 

 

 

 

 

 

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 「明わたる 天のかぐ山
そらかけて
とをちの里の 梅の下風
(群書類従 十市遠忠)

十市遠忠は、十市新左衛門遠治の子。中原朝臣も称す。十市氏は興福寺大乗院方の土豪であったが、父遠治の時代に所領を拡大した。天文二年(1533)頃、遠忠が家督を継ぐと、木沢長政や筒井氏と争い、龍王山城に拠って一大勢力を築いた。官職は兵部少輔に進む。天文十四年三月十六日、四十九歳で没。墓は天理市の長岳寺にある。
堂上派の和歌を学び、三条西実隆・公条に師事した。詠草・自歌合・定数歌などが多く伝存し、正・続群書類従には百首歌と四種の自歌合が、私家集大成には五種の詠草が収められている。書家としても名があり、藤原定家撰の『拾遺百番歌合』『別本八代集秀逸』、宗良親王の『李花集』、藤原清輔の詠草など多くの歌書を写して後世に伝えた。
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「十市遠忠百首」 続群書類従394(第十四輯下)
「十市遠忠百番自歌合」 続群書類従417(第十五輯下)
「十市遠忠三十六番自歌合」 群書類従222(第十三輯)
「十市遠忠五十番自歌合」 続群書類従416(第十五輯下)
「十市遠忠百五十番自歌合」 続群書類従418(第十五輯下)
詠草(五種) 私家集大成7
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