今井町 今西家住宅 The Imanishi of Tochiagatanushi clan Preservation Foundation

神武天皇に協力し、県主の称号を授かり、十市県主大目の娘を孝霊天皇の皇后として外戚を結び、南朝武将として後醍醐天皇吉野潜行の折にお見送り、戦国期今井町を城塞都市化して信長軍と闘うも戦いを収め、自治権を許されて栄えた。建国の地かしはらより 悠久の風を!

家は住みながら育てて美しく熟成させていくもの!家にとって最も大切なのは、建造物や調度品を相続する事よりも愛着を子孫に引き継いでいくこと。その想いが「大黒柱」となり、家を支えていきます。

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 「明わたる 天のかぐ山
そらかけて
とをちの里の 梅の下風
(群書類従 十市遠忠)

十市遠忠は、十市新左衛門遠治の子。中原朝臣も称す。十市氏は興福寺大乗院方の土豪であったが、父遠治の時代に所領を拡大した。天文二年(1533)頃、遠忠が家督を継ぐと、木沢長政や筒井氏と争い、龍王山城に拠って一大勢力を築いた。官職は兵部少輔に進む。天文十四年三月十六日、四十九歳で没。墓は天理市の長岳寺にある。
堂上派の和歌を学び、三条西実隆・公条に師事した。詠草・自歌合・定数歌などが多く伝存し、正・続群書類従には百首歌と四種の自歌合が、私家集大成には五種の詠草が収められている。書家としても名があり、藤原定家撰の『拾遺百番歌合』『別本八代集秀逸』、宗良親王の『李花集』、藤原清輔の詠草など多くの歌書を写して後世に伝えた。
「十市遠忠百首」 続群書類従394(第十四輯下)
「十市遠忠百番自歌合」 続群書類従417(第十五輯下)
「十市遠忠三十六番自歌合」 群書類従222(第十三輯)
「十市遠忠五十番自歌合」 続群書類従416(第十五輯下)
「十市遠忠百五十番自歌合」 続群書類従418(第十五輯下)
詠草(五種) 私家集大成7
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富士山の名が以前には妊娠を表す"孕み(ハラミ)ヤマ"と呼ばれていて、正に国を生んだ元という敬意を表す名前でした。
孝霊天皇が念願のハラミヤマ登山を行幸された折に、田子の浦人(たごのうらびと)が孝霊天皇に藤の花を捧げ、新しい山の名を織り込んだ秀歌を詠まれました。

噴火(なか)口は歴(ふ)り  
中(なか)は湧きつつ  
このヤマト
共鎮(ともしず)まりの  
この山よこれ

ハラミ山 
一降り(ひとふり) 咲けよ 
藤蔓(ふじつる)の
名おも縁(ゆか)りの  
この山よこれ
孝霊天皇(ふとにのみこと)御製

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本日、昭和天皇の弟宮であられる、三笠宮崇仁親王殿下が薨去なさいました。御年100歳でございました。
心から哀悼の意を表します。
大和先住豪族の末裔の今西家へ是非との事で、お立ち寄りいただきました。
子孫の我々よりも磯城彦についてのご博識がお深いのに驚き恐縮したのを昨日の事のように憶えております。

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神紋が橘の廣瀬大社樋口宮司から橘の実生の苗木を分けていただき、朔(ついたち)の本日大安の佳き日に植樹しました。
官幣大社・廣瀬大社は、日本書紀に記されているように天武天皇が風を司る龍田風神と一対の社として. 龍田・廣瀬両社を併せ祀られました。
十市家より南北朝時代に饒速日命(ニギハヤヒ)の末裔である廣瀬大社樋口宮司家に養子へいき、川井を名乗り河合城を築きました。
なお、橘街道プロジェクトを展開して橘の縁を広げておられます。
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重要伝統的建造物群保存地区・今井町において、5月7日(土)から15日(日)10時から16時まで第21回今井町町並み散歩が開催されており、重要文化財の公開・今井六斎市・茶行列・各種コンサート・フリーマーケット等が行われ、期間中毎年約5万人以上の来訪者が訪れます。

2011年東日本大震災の第16回今井町並み散歩の義援金を日本赤十字社に寄贈いたしましたが、熊本県の被災地に対して何か支援協力できないかを今回も模索しておりました。
そんな中、公益財団法人十市県主今西家保存会は熊本地震義援募金箱を設置して、熊本県へ義援金として寄贈する旨を決定いたしました。

重要文化財今西家住宅において、熊本県を勇気付けたいという想いを込めて、癒しの灯りをともす空間を株式会社カキモトさんがあんどんを各所にあしらって「町の幻想あかり」展を開催されております。なお、今回のために風情ある町並みをデザインした新作の今井町モチーフの行燈もお披露目されています。

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また、土間であんどんの灯りを鑑賞しながら、吉野山の「葛の御菓子 TSUJIMURA」さんの屋台と縁台を設置して、吉野葛きりをご賞味ご堪能いただければなによりです。

なお、今井町重要文化財今西家住宅へは、近鉄橿原線八木西口駅下車徒歩5分、JR西日本万葉まほろば線畝傍駅下車15分、自動車南阪奈道路から高田バイパス寺田ランプで降り、五井町交差点を越えて次を右折し、正面が今西家住宅。
なお、問い合わせは公益財団法人十市県主今西家保存会(0744-25-3388)へ。

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本日、三輪坐恵比寿神社の初市大祭の残り福にあやかりに家族で詣りました。
日本で最初に開かれた市場は、海石榴市(つばいち)と呼ばれる市で、三輪山の南麓の金屋という崇神天皇の都、磯城瑞籬宮跡があったところで初瀬川の川べりに物々交換の市として開かれました。かつては「つばきち」と呼ばれていましたが、今はつばいちと読んでいます。
この地には、椿の林が茂って、霊木として尊ばれ、ここで商取り引きをすれば、誤魔化そうとするこころがなくごまかされることはないと考えられていた。古代大和における重要路が交わるところであり、いくつもの道が交差するところから八十衢「やそのちまた」と呼ばれ栄えていました。秦氏ゆかりの初瀬川による水上交通もこの辺りを起点としており、水陸の交通の要衝でありました。しかし、延長4年(926)7月の大雨で、初瀬川が氾濫してその後、市と恵比寿神社も三輪の地へうつりました。その昔、磯城邑には、「海石榴市」や箸墓古墳の近くの「大市」そして、十市御県坐神社の近くの遠市「十市」があり栄えていた事がその名から伺えます。{654492B9-C3B4-4EA9-BD8C-751D7A1E9D11:01}{8CD421B1-38E2-4A85-8EC9-0B273380AC1F:01}

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古来より、人々は天地雷鳴などの自然現象神憑りによって神からのお告げ(ご神託)をうけとった。
三笠山(若草山)の南、春日大社の東に、春日山と総称される山々がある。
現在、春日山原始林と呼ばれる照葉樹林におおわれた地域である。
この春日山の木々が何千本という単位で夏にもかかわらずいっせいに枯れるという事が、中世に幾たびかあった。
嘉元二(1304)年、鎌倉幕府は敢えて大和には守護を置かずに地頭のみを置いたが、興福寺の衆徒や僧らによって追放されるという事件があった。
幕府は興福寺の僧や春日神人を多数逮捕して、その所領に再び地頭をおいた。
この措置を嘆き悲しんでいたところ、春日山の木々がいっせいに枯れてしまい、人々は託宣どおり神がアメノミヤにお帰りになったのだと噂した。
この話が関東の幕府に伝わり、驚いて地頭を撤廃することにしたが、その決定が大和に伝わる前に、夜中に四方八方の雲が光り、風が吹き、雨がそそぎ、星のような光が次々と飛来して春日社に入り、神の帰坐を示したことが「春日権現験記」に記されている。
その後、幕府は神の怒りを放置しておく訳にはいかず、神楽を奉納し、興福寺の要求を聞き入れ神の慰撫につとめた。

興福寺は、春日社の神木を動かして朝廷をも威嚇し、要求を貫徹させてきた。
ここでいう神木は、神主が運べる程度の大きさの榊に神の依代である鏡を取り付けたものであるが、威嚇の第一段階として、興福寺の僧たちは春日の神を神殿から呼びだして鏡に付け、神木を春日社内の移殿(うつしどの)に移した。
ここで要求がいれられれば神は元の神殿に戻ることとなるが、いれられない場合、第二段階として神木は春日社を出て興福寺の金堂に移された。
ここでも尚、威嚇の効果がないとき、いよいよ進発ということになり、神木は何百何千という神官、楽人、僧などのお供を伴って京へ向けて出発した。途中、木津を経て宇治では平等院に入ることが多く、ここから聞き容れられれば引き返すこともあった。
京では、藤原氏の勧学院長講堂などに入った。

神木の入洛(じゅらく)とは、藤原氏にとって氏神が身近にこられたことであり、日常の業務を離れて神に奉仕することが必要になる。朝廷には源氏橘氏など他姓の貴族も居たが、藤原氏が圧倒的に多く、神木上洛は政務をストップさせるものであった。
従来幕府は、「神木動座」があると朝廷を通じて興福寺と折衝してきた。幕府が自らの判断と責任で直接興福寺を抑えにかかることは、決して無かったのである。



興福寺五重塔
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