こんにちは(^^)
みなさまお元気でしょうか?
昼間は暖かく、夜は冷えこむ日がつづいております。
最近、特にですが、瞑想会等で、それぞれの方とコミュニケーションし、
瞑想する時間がとても楽しいです。
のみならず、街行く日常でも、です。
買い物するときも、アンケート(文化庁…)のおばちゃんが来ても。
ちょっとした所にも、いたる所に、なんらか心の通うコミュニケーションを
感じます。
そして、どんな時に自分のエゴを感じるかってのも、克明に見えてきたりします。
「自分の」ってのもエゴだけど。
体験や疑問をシェアすることで、それぞれに気付きがあるし、
私自身も様々な視点からの、お話を聴くのが、とても興味深いです。
「そうか、そういう見方もあるか」と……。
それぞれが、それぞれのプロセスで変化しているからこそです。
瞑想していると、自己矛盾だとか、内側にある痛みとか、エネルギーの変化とかに
遅かれ早かれ気付いていくのでしょう。
自分の心が固くなる時、それは何処で、何が起こっているんだろう?
自覚のある・無しにかかわらず、一瞬一瞬の出来事がその人の強固で、堅牢な自我を作っていく。
自己の存在の危うさを感じた時、人は心を固くする。
心が固い状態…それは不安を感じているとき。
不安を感じているとき…それは自己の存在の危うさを感じているとき。
不安を感じない人なんてのはいません。…たぶん。
自分の存在に危機を感じるならば、自我は防御にはたらく。
時としてそれは過剰防衛となり、攻撃性となって表れる。
そこまで過剰でなければ、不信・疑いとなって表れる。
何を疑う?
他人を? 回り回って自分を??
不安からものを見れば、何もかもが不安に感じるかもしれない。
100億円持っていても不安な人もいるだろう。持ったこと無いからしらないけど。
真我・アートマンなどといったりするが、そういうものがあれば・解れば、
不動心は手に入るのだろうか?
それじゃ真我・アートマンはどこにある?
それは確かにあるはずなのに、わからない…。
もっともっと深い内側にあるんだろうか…?
内側に真我を探しに行く作業は、タマネギの皮を一つ一つむいて、
中心にタネを探すのに似ている。
まず、タマネギに皮なんてない。
皮だと思っているのは、私達がタマネギとして認識している部分が水分を
失って変色し、薄く固くなったものだ。
茶色い部分を取り除き、白い所を順にはがしていっても、タネはない。
あるのは、何かあるかも知れない、という儚い妄想だけだ。
なんにもない!
カラっぽだ…。
いや空だ。
私達のイメージのなかで捉えている真我の妄想は、どこまでいっても妄想というエゴの
産物にすぎない。
だから、どこまでいっても、自分のエゴを培養することにしかならない。
だけど自分と友達になることから始めなくっちゃ。
でなければ、自分の妄想に殺されてしまうだろう。
そして「無我の境地」へ…?
自分が気付いた、と感じるものですら、妄信はせず、精密に見つめ検証する。
厳しい道だ。
でも、もう片足どころか、両足ともその道に入っちゃってます
という状態の人ほど、
自分には到底無理そうだ
と感じるらしい。
エゴの抵抗を受けて。
どうしましょ。
瞑想しましょ。
それぞれのプロセスで、ただ淡々と。
よっしー
みなさまお元気でしょうか?
昼間は暖かく、夜は冷えこむ日がつづいております。
最近、特にですが、瞑想会等で、それぞれの方とコミュニケーションし、
瞑想する時間がとても楽しいです。
のみならず、街行く日常でも、です。
買い物するときも、アンケート(文化庁…)のおばちゃんが来ても。
ちょっとした所にも、いたる所に、なんらか心の通うコミュニケーションを
感じます。
そして、どんな時に自分のエゴを感じるかってのも、克明に見えてきたりします。
「自分の」ってのもエゴだけど。
体験や疑問をシェアすることで、それぞれに気付きがあるし、
私自身も様々な視点からの、お話を聴くのが、とても興味深いです。
「そうか、そういう見方もあるか」と……。
それぞれが、それぞれのプロセスで変化しているからこそです。
瞑想していると、自己矛盾だとか、内側にある痛みとか、エネルギーの変化とかに
遅かれ早かれ気付いていくのでしょう。
自分の心が固くなる時、それは何処で、何が起こっているんだろう?
自覚のある・無しにかかわらず、一瞬一瞬の出来事がその人の強固で、堅牢な自我を作っていく。
自己の存在の危うさを感じた時、人は心を固くする。
心が固い状態…それは不安を感じているとき。
不安を感じているとき…それは自己の存在の危うさを感じているとき。
不安を感じない人なんてのはいません。…たぶん。
自分の存在に危機を感じるならば、自我は防御にはたらく。
時としてそれは過剰防衛となり、攻撃性となって表れる。
そこまで過剰でなければ、不信・疑いとなって表れる。
何を疑う?
他人を? 回り回って自分を??
不安からものを見れば、何もかもが不安に感じるかもしれない。
100億円持っていても不安な人もいるだろう。持ったこと無いからしらないけど。
真我・アートマンなどといったりするが、そういうものがあれば・解れば、
不動心は手に入るのだろうか?
それじゃ真我・アートマンはどこにある?
それは確かにあるはずなのに、わからない…。
もっともっと深い内側にあるんだろうか…?
内側に真我を探しに行く作業は、タマネギの皮を一つ一つむいて、
中心にタネを探すのに似ている。
まず、タマネギに皮なんてない。
皮だと思っているのは、私達がタマネギとして認識している部分が水分を
失って変色し、薄く固くなったものだ。
茶色い部分を取り除き、白い所を順にはがしていっても、タネはない。
あるのは、何かあるかも知れない、という儚い妄想だけだ。
なんにもない!
カラっぽだ…。
いや空だ。
私達のイメージのなかで捉えている真我の妄想は、どこまでいっても妄想というエゴの
産物にすぎない。
だから、どこまでいっても、自分のエゴを培養することにしかならない。
だけど自分と友達になることから始めなくっちゃ。
でなければ、自分の妄想に殺されてしまうだろう。
そして「無我の境地」へ…?
自分が気付いた、と感じるものですら、妄信はせず、精密に見つめ検証する。
厳しい道だ。
でも、もう片足どころか、両足ともその道に入っちゃってます
という状態の人ほど、
自分には到底無理そうだ
と感じるらしい。
エゴの抵抗を受けて。
どうしましょ。
瞑想しましょ。
それぞれのプロセスで、ただ淡々と。
よっしー





