絵をかきたい | 日々是好日
絵って、いいよね!

おれは絵がすきだから、けっきょく、この仕事をしているのかもしれない。


「グっとくる絵」って、あるよね。

歴史とか時代背景とかすっとんでしまって、見た瞬間に、フリーズしてしまうような何か。


それが絵だったり、音楽だったり、文学だったり、詩だったりするんだ。


おれは、音楽も文学も詩も、ぜんぶ大好きだけど、ちがうんだ。

結局「絵」によって、おれは、こころをゆさぶられる。

(おれはすぐに、いろいろ揺さぶられるけれども)


技術を習得してマネるんじゃなくて、技術を習得してまで表現したい、それこそが、大事だよね。


なんのために、技術を習得するのだろう。

なんのために「うまく」なるんだろう。

なんのために、練習するんだろう。


めだちたいから、じゃないよね。
人に褒められたいから、そんな動機で、一命をかけることができるかな?


だってサ、みてみろよ! 

あんな絵、かけるか?

みてみろよ! そんなクソみてぇな動機だけで、命を懸けてまで絵具を探しにいくか?

いかないよ。

「褒められたいから」だけで、そこまで、やる?


人の評価なんか気にしているうちは、結局、なにもできないんだよな。

おれは、おれがしたいことをすることにしたんだ。

おれがいま生きている理由は、それだ。

どうせ死んでしまうんだ、人に遠慮なんかイラネー。


人に遠慮しないからといって、人に迷惑もかけねー。

なぜかというと、その相手も、おれとおなじ人間だからな。


もう細かい倫理とか、いいんだよ、殺したり、盗んだりしなければ、だいだいOKだ。

それをしなければ、自由に生きていってよし。

もっといえば、たまに盗んで、も、いいよ。


・・・ていうふうなアレでは、あんな絵は、かけないんだろうな。

「部分的にOK」とか「条件付きでOK」とかサ。

それは結局、ようするに「OKじゃない」っていうことだろう?


「なんのために」とか、クソくらえだぜ。

やりたことがあれば、人を殺してでも、やればいいんだ。

その情熱が、あるか?


ないよ。 ぜんぜんない。

ないんだよなあ、そこまでは。


ないのなら、あきらめて、死んでいこう。

それもまた、いいんじゃないかな? ぜんぜん悪くはないよね。

おとなしく、しずかに、すずやかに、いきていこう。 いいね!


でもさぁ。

ほんとにいいか? それ。

「全面的に角度を変えてしまう」っていう生き方も、あるんだけどなあ。

そこに、あるんだよなあ。 目の前に、あるんだけれど。


でもおれ、ビビりだから、できないんだ。

常識が邪魔をしているんじゃないよ。 

おれ、ビビりなんだよ。

ほんとうは、そうしたほうがいいってわかってるんだけど、どうせ死ぬくせに、いっちょうまえに、「いまを維持したほうがいい」なんて考える、ビビりなんだ。

正解は、いまにも、過去にも、未来にもないというのに。

ビビりは、小心者なんかじゃないぜ。

傲慢なんだ。「いまが正解」っていう情報に拘泥している、傲慢だ。

傲慢では、あんな絵は、かけないよなあ。

ていうふうに、こんなことをぐずぐず言っている時点で、失格だね。

絵は、言語を超えたコミュニケーションだからなぁ。

だから、もうっ。
コトバでグズグズいうなってーの。

非言語で、それを表現しよう。

絵を、かこう。