いま、仕事で小学生低学年の子どもたちが描いた絵を扱っています。
あるテーマで、夏休みに絵を描いてほしいと学校にお願いしたところ200通ほど応募してくれました。
この中から30点を優秀作品として選ばなくてはならないのですが、困ったものです。
こちらがお願いをして、忙しい夏休みにせっかく描いてくれたものに順序をつけるというのは、なかなかに酷なものです。
できることならば、全部入賞にしてあげたい!
ほんとうにそう思ったので、すべての作品に何らかのインセンティブ(というかお礼)をつけることを画策中です。
さておき、子どもの絵の効果というのは、すごいものがあります。
ぼくの今の職場は、総体としてかなり真面目で深刻なことをしています。
(どんな仕事もそうだけどね)
だから、職場の雰囲気には、なかなかの「緊張感」があります。
そんな職場で、ついさっきまで怒っていた人でさえ、子どもの絵を見ると、笑顔になります。
仕事の手をとめて、ほほえみながらしばらく鑑賞している人もいます。
子どもの絵には、緊張した大人を弛緩させる「何か」があるようです。
その昔、「自分も描いていた」ものだからなのかもしれません。
高等な技術もなければ構図だってめちゃめちゃなのに、
「額に入れて、飾りたいなあ」
と思う絵もあります。
大人が子どものまねをして描いても、ぜったいに、このようにならない。
設計され、剪定された庭園も確かにステキだけれど、人の手が入っていない雑木林もまた、うつくしいものです。
子どもの絵は、まるで鬱蒼とした山奥の原始林のようです。
計算も理屈も目的もなく、勝手気ままに散らかっているように見えるけど、
総体として全体を見れば、人工のものよりもはるかに調和がとれていて、完成されている。
子どもの絵にも、ふしぎな「調和」があります。
ぼくたちは、大人になるにつれて理論と計算を重視するようになり、想定外や予想外の出来事を「悪」として駆逐するようになります。
なぜかというと、いっぱい「怒られた」からなのだと思います。
存在全体の調和より、限られたコミュニティーの中での調和を優先するようになることが、大人になるということでもあります。
また、そのように矯正し、教え導くことも、大人の重要な役目です。
しかし、限られた空間での調和がある程度成功すると、その空間以外の、別の空間との調和が非常にとりにくくなります。
「他人(ひと)は他人(ひと)」に代表される、価値観の違いが生まれます。
ぼくたちは、まずは狭域の調和を優先しなければ生きていけないからこそ、社会的動物だといわれるのだと思いますし、それが正しいと思います。
人は、一人では生きていけないのですから。
しかし、それではすこし、さみしいな。
そんな気持ちが、どこかにまだ残っているのでしょう。
なにひとつ調和せず、成功もしていない線と色の総体が、見事にきっぱり調和している「自然の姿」を垣間見て、うれしくなるのではないでしょうか。